kotaro-tsukaのブログ

社会の構造によってつくられる誰かのいたみ・生きづらさなどに怒りを抱き、はじめました。「一人ひとりの一見平凡に見える人にも、それぞれ耳を傾け、また心を轟かすような歴史があるのである」(宮本常一)をモットーに、ひとりひとりの声をきちんと聴き、行動できる人になりたいです。このブログでは主に社会問題などについて考えることを書いていく予定です。

「なぜ男性は変わる必要があるのか」について考える―自分自身の人生を生きるために

東京オリンピックパラリンピック組織員会の森会長による女性蔑視発言から数日が経ちますが、怒りの声は留まるどころか、その後の本人及び為政者らの対応により、火に油が注がれ続けていますね。。

 

同じ男性として非常に恥ずかしいのと申し訳ないのと、、憤りとともに様々な気持ちを入り混じりながら、この問題のことを考えています。

 

このことは、日本がいかに男女平等の面で遅れている国かを世界中に露呈することとなったと同時に、SNSで多くの運動が起こることとなり、ある種(望まないようなかたちではあり言葉にするのにはやや躊躇するのですが…)分岐点・転換点として、大きな変革を促しうるかもしれないと(心からの反省をしながら)願いも込めて、思っているところです。

 

 

さて、そのような状況下ではありますが、私はここで一度少し離れた位置から「なぜ男性は変わる必要があるのか」ということについて、私自身の体験から考えていたことを書きたいと思います。

といいますか、正確にはずっと考えていたことであり、いつ書こうかと迷っていたのですが、これを機に書かせていただこうと思うようになりました。

プライベートな内容も多いので、少し不安でもありますが…お付き合いいただければ幸いです。

 

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男性はなぜ変わる必要があるのか

フォトシャロンマカッチョンUnsplash

 

 

 

 

「なぜ男性は変わる必要があるのか」

 

早速ですが、みなさんは「なぜ男性が変わる必要がある」とお考えでしょうか?

あるいは、「なぜ男女平等にしないといけない」とお考えでしょうか?

 

答えはいろいろあることと思います。

 

・平等な社会でないと傷つく人(女性)が増え続けるから

・男性は女性に対して不当な扱いをすることが多く、不当な扱いをされることはいたみ(傷つき)を伴うから―それは時として自死にまで追いやるから

などなど、このような答えがあるかなと想像します。

 

私も同じように考えているのですが、私がこの問題について考えるときにいつも浮かぶ答えのひとつがこちらです。

 

「自分自身の人生を生きることができなくなるから」

 


どういうことか、ここではこのことについて書いていきたいと思います。

 

※本題に入っていく前に、これは私の経験からの内容が多く、主観的であること、また、私の身内に関することになりますが、誰かを攻撃したい意図などがあるわけでもないことを断っておきたいと思います(なので、みなさまから責めることもしないでいただきたいです)。

正直、文章として残すこと自体迷うのですが(消すかもです)、やっぱり声を上げていたいと思ったので書きます。

 

私の父を支配する「男らしさ」について

父が私にかけてきた言葉から辿る

 

これは私の父親についての話です。

 

私の父親は私に(よく)このような声をかけます。

 

「おまえは弱いな。すぐ風邪引くよな(情けない)。」

「同級生はいくら稼いでると思ってるんだ?」

 

私は確かに体調を崩すことが多く、身体があまり「強く」ない人間なのですが、風邪をひくと「またか」という具合で父は私にそう言います。

 

後者は、仕事の話になったときに何の文脈もなくそう言われましたし、私がパートナーの車を運転していたとき、わかっているだろうに「その車どうしたんだ?」と聞いてきて、「パートナーのだよ」と返すと「なんでだよ(情けない)」と鼻で笑われることもありました。

 

他にも、孫が転んだり何かあった時に泣けば「男の子なんだから泣くんじゃない!」という言葉をかけて泣き止まそうとします。

私は間に入って、「泣きたいときは泣いていいんだよ」と伝え、父には「男だろうと泣くときは泣くんだよ!」と、その子を守るために全力でさえぎったりしています。

 

このようなエピソードは書ききれないほど多く浮かんでくるのですが、これらからわかることは、私の父は

「男性は強くあるべき」

「男性は稼いで養う存在であるべき」

という「男らしさ」観念を強く持っているということです。

 

これは女性蔑視(については後半で書きます)と表裏一体としてある観念であり、改善される必要があると思われますが、その理由は何でしょうか?

 

・強くないことが「情けない」などと言われるのは、言われた人が傷つくから

・強くない人や稼ぐのが得意ではない人もいるので、その人を否定することになるから

・泣きたいときに泣けない人間になってしまうかもしれないから

・女性が強いとおかしいとか、稼ぐとおかしいという風に思われる風土ができてしまい生きづらくなるから

などなどといった答えが挙がるかなと思われますが、どれもその通り(私は傷ついていないのですが)と思っています。

 

私の場合、その対象が「父」であるということもあってか、こういう考えが強く頭に浮かびます。

 

「それは結果、あなたを幸せにするのですか?」

 

結論から言うと、先の問いに対する回答とも重なりますが、私は「それはあなたを幸せにしないから」改善される必要があると考えるのです。

 

「男らしさ」と父のいま

 

よりプライベートな話になって恐縮(お恥ずかしい)ですが、、、

父は現在おそらく軽度の依存症を患っています(病院で診断を受けたわけではない)。

長年家庭内離婚をしているようなものでもあり、友人も依存対象を通じた界隈の中にしか残念ながらいません。

最後のは自助グループ的なものとは別の話です。賭け事などをするためだけに集まる人たちであり人間的なつながりが希薄という意味です。

 

病気であることも、家庭内離婚をしていることも不幸に直結することではないと考えていますが、「違う人生」を「選べる余裕」があったにも関わらずそうなっていることにおいては、「幸せ」とは呼べないだろうと思っています。

 

私や家族は父に何度も問いかけ、対話を試みてきました。

しかし私の力不足もあり、結果、彼は変わることができず、今もその道を突き進んでいるのです。

 

これまでしてきた対話の中で、父はこんなことを言ったことがあります。

 

「家にいたら(家庭内離婚なので)ストレスがたまるだろう。そうしたら外に出るしかない。外に出てストレス発散するには賭け事するしかないじゃないか」

 

私はそれを聞いて愕然としましたが(身内なので)、それにつながる(矛盾しているようにも見えるのですが)話が別にもあります。

 

場面変わって、私が高校生の時のことです。

私が精神的に参ってしまっていたことがあったのですが、その時に父が私に提案したものは、山奥にある祖母の家に私を行かせるというものでした。

 

それ自体はとてもいい提案のように見えますが、父のこの提案の意図は「畑仕事でも手伝わせて、生きる厳しさを学ばせないとだめだ」というものだったということが後ほどわかったのです。

 

孫に「泣くな」と言うということは、「男は泣いてはいけない」と思っているのでしょうから、父は泣くこともできないわけですね。

困難を乗り越えるには、私に提案したようにさらに厳しい環境に身を置いて強くなるしかないようであり、でもそこは人間であって限界があるため(本人は認められないでしょうけど)、最終的には賭け事でストレスを発散するという方法しかわからなくなってしまった。

その結果として、軽度の依存症になり、家庭をはじめ情緒的なつながりを自らどんどん絶ってしまうことになったというのが、私の父です。

 

父の中の「男らしさ」の結果がこれであり、これは「父を幸せにしている」とは残念ながら私には思えません。

父と対話を繰り返してきたものの、父を思うと、己の無力さと同時に、悲しさで胸がいっぱいになります。

 

ここで少しだけ父はどんな人物なのかということに触れると、父はいわゆる「地方」の出身でした。

そこは本当にいいところで、食事もおいしいし自然豊かで空気もおいしいし歴史もいろいろあるし人のつながりも体感することができるところです。

 

しかしというのか、だからこそというのか、「学歴」がモノを言う時代であったため、父はおそらくその地方の中では「高学歴」の人であり、鼻も高かったのだと思われます。

 

男は「高学歴」になって、「高い稼ぎ」を得て、「女・家庭を養うもの」というあまりにもびたびたの観念のもと生きてきて、それを達成することができたのが父だったのでしょう。

その意味では素直でいい子だったのかもしれませんね。。

 

それは父にとって「男としての強さ」の象徴でもあり、それゆえに、その「強さ」を手放さないように必死だった部分もあったのかもしれません。

 

父は一度「仕事をやめたい」と漏らしたことがあったそうですが、そうすることなく、それはもしかしたら「やめたい」という「自分の本当の気持ち」よりも「男らしさ」を優先して生きてきた(そうせざるを得なかった)のかもしれないと思うと、なんとも胸が締め付けられる思いになります。

 

これが「なぜ男が変わる必要があるか」について、男性による「男らしさ」の視点から考えた私の回答となります。

 

私の父にとっての「女のあるべき姿」について

父の言葉から、父が女性をどう捉えていたかを辿る

ここからは、父の女性に対する観念について書きたいと思います。

 

これまで私が直接・間接的に耳にしてきた父が女性に向ける言葉はこのようなものです。

 

「バカ女」

「お前(女性)は大学なんか行かないで、肉体労働でもしてればいいんだ」

「女はすぐ泣く。泣けば許されると思ってる」

 

本当に…書くのも恥ずかしい(申し訳ない…)くらいですが、こういう言葉を父は言い続けてきました。

 

私には姉がおり、当然母もいるため、女性ふたりには特に(お酒がまわると余計)被害を受けてしまったと思います。

 

今はそれらがDVでありハラスメントであると認められるようになってきましたが、当時はそういう「守られ方」もなく、泣き寝入りして我慢するしかなかった類のものであり、父が母姉を傷つけてきたこととそういう制度や風潮であったことの罪・責任はとても大きいものではないかと私は思っています。

 

これらからわかることは、父は

「女性は男性より劣った生き物であるということ」

「女性には学歴や就職の希望はいらないということ(女性は家庭で子どもを養う存在)」

「女はよく泣く、ずるい生き物であるということ」

という「女らしさ」の観念を抱いているということだと思われます。

 

激しく否定したいところですが、ここでも「男らしさ」同様に、これは「あなたを幸せにしているか」という視点で考えたいと思います。

 

父の「あるべき女性像」は誰を幸せにするのか

まず「人を女性であるということだけで、対等に見ることがない」という状態はどういうことを生じさせるでしょうか。

 

「劣った人間」側とされる立場になって想像してみると、「自分より劣った人間である」と見られるということは、当然ですが不快なことですよね。

不快感を抱けば、真にその人のことを信頼することなど到底できません。

つまり、人と人との深いつながりというものを築くには、かなり努力が必要なことであり、難しいことであったと考えられるでしょう。

友人は数で測れる問題ではありませんが、いま心を落ち着かせられる気の置けない友人がいないということはここが起点であったのかもしれません。

 

また「劣る」「劣らない」という理論を持つことは、自分もいつ「劣った人間になるか」わからないという世界で生きていることを示しているように私は考えています。

 

それは(余計な)競争の世界であり、いつも外面「だけ」はよくしないといけないため、通常よりも何倍もストレスがかかる生活を送っていたのではないかと想像がされます。

競争の世界を否定しているわけでは決してないのですが、それが父の場合には「家にいることもストレスになる」という状況へ進めてしまい、どこにもはけ口がなく、常に逃げ惑うような日々を過ごすことになってしまったのではないかと思うのです。

 

「女性であるというだけで見下す」ということは「女性を無条件に傷つける可能性がある」ということであり、「それをよし」としている可能性もあると考えた時に、それは常に加害を生むリスクにさらされていると言うこともでき、良心がある限り、それはそれでとてもストレスだったのではないかとも思います(もちろん被害側が最もストレスを感じることになってしまうのですが)。

 

続けて、「女性は家庭で」という考え方ですが、これは「女性であるというだけで、人の将来の希望」に沿うことができないと言うことができるように思います。

 

人には「自分で決めたい」欲求(自立・自律心)がありますね。

それを「女性だから」という何の根拠も愛もない意見を押し付けて遮ったところで、双方にとって良好なものは生まれないでしょう。

 

根底からそう思っているのだとしたら、先ほど書いたように「男性が稼がないと!」という観念が強迫に近いものとなっている裏返しであるので、相当プレッシャーを感じながら生きていたのではないかと思います。

 

さらに、これも先ほど書きましたし、また出てきたかという感じですが、「泣く」ことは「女性がする」ことであり「ずるい」ことであると考えているのであれば、人前で泣くことなどできませんよね。

 

ストレスを過剰に自ら感じるわ、泣くなどのストレス解消も自ら選択肢から外すわとなれば、ストレスの解消の仕方がわからない・上手に甘えられない(依存できないゆえに依存症になる)というループに自ら追いやっていったのだということがわかります。

もちろんサポートがあれば違ったということもあったでしょうけど、当時、そういったものは限りなくなかったのではないかなと思います。

その意味では不憫でなりませんが、これらは「あなたを幸せにしなかった」という事実だけが残っていることをしっかり可視化する必要があるように思っています。

それでもやはり、少しでもそう気づくことができて、変わることができていたら何かが違っていたかもしれないと本当に悔やまれます。。

 

「男性が変わるためにはどうしたらいいのか」を考える

父という名の世の男性たちへ

これまで、「なぜ男性は変わる必要があるのか」という問いについて、「男らしさ」と「女らしさ」の視点それぞれから、「自分自身の人生を生きられなくなる」、「自分自身を幸せにしない」という私なりの回答について書いてきました。

 

主観的で狭い世界の話ではありましたが、このことについてはある程度ご理解いただけたかなという風に思っています。

 

では最後に、「なぜ変わることができないのか」「変わるためにはどうしたらいいのか」ということについて、私の考え(願望に近いかと)を書かせていただきます。

 

びたびたの「男らしさ」の中で生きた父はある種「素直でいい子だったのかもしれない」ということを先に書きました。

 

そう私に思わせるもうひとつのエピソードがあります。

それは私の祖母、つまり父にとっての母の言葉でした。

 

父は私にこう言ったことがあります。

 

「「女が我慢すればいいのに」って母(私にとっての祖母)が言っていたんだけど、あいつ(私にとっての母)は全然そうしなかった」

 

このエピソードを聞いて、「ドキッと」された方、おられないでしょうか?

自分の行動を「母がこうしていたから」や「父はこう言っていたから」という理由で選んでいることってないでしょうか?

 

私たちは学習する生き物です。

ここまで私の父のことを書いてきたのですが、「父という名のザ・昭和男性に刷り込まれていること」について私は書いてきたつもりでした。

 

学校現場はもちろんですが、家庭内の教育は閉ざされた空間であるために、言い方は悪いですが、空気のように、知らず知らずに何かが「刷り込まれている」あるいは「刷り込んでいる」ということが起こります。

 

森会長の発言問題は、閉じられた空間であるがゆえに誰も反論できない、もしかしたら気づくこともできなかったかもしれないということがあったかもしれず、それはここに類似しているようにも思えます。

 

私の「なぜ」の回答は「自分自身の人生を生きられなくなる」からでした。

私の父のような例はもしかしたら稀かもしれませんが(そんなことないだろうとも思います)、大なり小なり、「自分自身の人生を生きる」ために、自ら抜け出さないといけないこと、というのが私たちにはあるのかもしれません。

 

そのことに自覚的でいられるかどうか、そういうことを投げかけてくれる社会であるかどうかということが非常に重要ではないかなと思います。

 

個人の責任ではなく教育や社会の問題として

ただし、おそらく、家族という閉じられた空間だけでそれを自覚することには限界があると思います。

父の場合は、早くに父(私にとっての祖父)を亡くしていたため、余計に「母」の苦労から見える言葉は尊いものであり、「刷り込まれていた」のかもしれません。

 

「父という名の」多くの人達として書いたように、これをきちんと社会問題としてひとりひとりに当事者性をもって考えてもらうことによって、閉ざされにくくなるはずであり、サポートが当たり前にある社会になるのではないか(そうなってほしい)というのが月並みですが、私の回答であり願いです。

 

社会問題であるということは、誰かを悪者にして攻撃すれば変わるものではないし、一朝一夕で変えられるものでもないということです。

女性には本当に申し訳ないけれど、時間をかけて、一歩ずつ確実に変えていかなければいけない、学び続けなければいけないのだと思います。

 

父はこのように言っていたこともありました。

「身体の構造上、女性は受け身なんだから。受け身で生きるのでないならば、身体の構造を変えてもらいたい」

 

ぞっとするような発言ですが、これは彼にとって「ふつう」なのです。

認知の歪みが見られるレベルですが、でも、歪んだ、あるいは誤った知識や価値観が、それだけ当時の社会に蔓延していたということでもあると私は考えています。

「受け身であるべき」女性である根拠をそういう誤ったものとくっつけて考えるようになったと言えるのではと思います。

 

とある女性が

「男は生き物として違うんだよ。男は浮気だってなんだってするんだから女性は耐えなきゃ」と言う場面も目の当たりにしたことがあります。

 

その方は理不尽な男性の言動に「耐えて」生きてきたのだと思います。

これもまた、そのことが「自分を幸せにする」かはわからないけど、「自分自身の思い」より「そうするべきもの」という価値観が社会で優位になっていた顕れだと考えています。

 

時代は変わり、社会は確実に変わっていると思いますが、今回の森会長の発言やその界隈の動きからわかる通り、根深いものとしてあるこうした社会の在り方を、ひとつずつ変えていかないといけないのだと思います。

 

子どもの教育に携わる、いえ、携わらない大人はいないという視点で、すべての大人が(自分自身の人生のためにも)この問題について考え行動していく必要があると思います。

 

「特権」を自覚する賢明さと社会構造のゆがみの是正に向けて

残念ながら「特権」に浸かっている人の中には、「特権の外の人のために」変わろうと思えない人も中にはいるでしょう。

 

そういう人(だけではないけど)に私が言いたいのは、あなたの「特権」にもっと自覚的になれば、もっと「あなたの人生」を幸せに生きていくことができるかもしれないですよ、ということです。

 

父は「特権」に浸かっていたのだと思います。

ただし、その「特権」が、歪んだ知識や価値観による賜物であることにも「自分自身の本当の気持ちではない」ことにも気づかずに、です。

それに気が付くことができ、気が付いたときに変化することに寛容な社会風土があれば、父は幸せに生きていけたのかもしれません。

 

「本当は(出身地に)帰りたいよ。いいところだもん。でも働き先がないからなぁ」とも父は言いました。

 

そしてまた、私が「幸せ」かどうかを問うた時は、哲学的な意味ではない「幸せってなに?」という返事をしました。

 

ここに歪んだ社会構造の影響がどうしてもあるように私には思えます。

 

「仕事」や「お金」に振り回されることがなければ、いわゆる「地方」で「人間らしい暮らし」ができたでしょう。

「自分にとっての幸せ」「自分自身の思い」を優先して生きていくことができる社会になれば、「幸せって何?」という問いがあっても、それは哲学的に探索できいずれ享受(感受)できるものであったでしょう。

 

それらがあれば、女性を女性であるだけで劣った人などと見ることからも、男はこうであるべきという価値観からも自由になれたかもしれないと思わずにはいられないのです。

 

もう一度言います。

「変わる必要がある」のは「変わらない」という判断は、あなたを「幸せ」にしないだけでなく、「あなたを含め、誰も望んでいない」可能性があるためです。

 

男であろうと女であろうと、性がなんであろうと。

身体が弱くてもいいし、いっぱい稼げなくてもいいし稼げてもいいし、学歴もあってもなくてもいいし、がんばり過ぎないで休んでもいいし、バカでもいいし、肉体労働も素晴らしいことだし、泣いていいし、話が長くてもいいし、出身地に帰りたかったら帰ってもいい…そんな社会にできたらどれだけいいでしょうか。

 

こんな社会を実現できるかどうかは私にはわからないのですが、少なくともそんな社会にしていきたいと願い、できることをしていきたいものです。

これもまた繰り返しますが、どうか父を責めないでもらえましたら幸いです。