kotaro-tsukaのブログ

社会の構造によってつくられる誰かのいたみ・生きづらさなどに怒りを抱き、はじめました。「一人ひとりの一見平凡に見える人にも、それぞれ耳を傾け、また心を轟かすような歴史があるのである」(宮本常一)をモットーに、ひとりひとりの声をきちんと聴き、行動できる人になりたいです。このブログでは主に社会問題などについて考えることを書いていく予定です。

中学生へ実施したゲートキーパー研修の内容と子どもの自殺対策についての考え

昨年末に中学生向けのゲートキーパー研修を行いました。

概要はアメブロとなりますが、以下をご覧いただければ幸いです。

ameblo.jp

 

これから、テーマごとに分けてひとつずつ書いていこうと思っていますが、その前に、子どもの自殺対策について私が考えていることをざっくりとここで書かせていただこうと思います。

 

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<a href="https://pixabay.com/ja/users/goranh-3989449/?utm_source=link-attribution&utm_medium=referral&utm_campaign=image&utm_content=2780203">Goran Horvat</a>による<a href="https://pixabay.com/ja/?utm_source=link-attribution&utm_medium=referral&utm_campaign=image&utm_content=2780203">Pixabay</a>からの画像

 

 

コロナ禍による若者や女性の自殺の増加

現在、コロナ禍によって自殺が増えていることが連日報道されていますね。

 

今も渦中ではありますが、コロナ禍によって影響を大きく受けた昨年2020年は、警察庁厚生労働省の発表によりますと、11年ぶりに自殺者が増加しており、特に7月以降は増え続けていたことが明らかになりました(新型コロナ: 20年の自殺者2万919人 11年ぶり増加、コロナ影響か: 日本経済新聞)。

 

その中でも、女性と若者の増加が目立っており、小中高生の自殺者は1980年以降で最多となってしまったようです。

 

女性や若者の自殺者の増加については、コロナ禍による外出自粛や生活環境の変化が影響した恐れがあるとされており、若者の相談対応をされているある団体によると、やはり自粛によるストレスや家族の収入減などの生活苦というものが背景にあるということです(「東北ココから」202125日放送)。

 

昨年は有名芸能人の自死も数件あり、メディアの報道の在り方によって、残念ながらウェルテル効果がより強く働いてしまったことも一因としてあるかもしれませんし、コロナ禍により途絶えたつながりや、社会全体が揺らいだことでますます将来が見えずらくなり、希望が持てないことや大きな不安を背負うことになってしまったということなどもあるのかもしれません。

 

もちろん、コロナと関係なく(関係ないことはないのですがコロナ以前からあった問題という意味で)学校や家庭に居場所を感じられない、安全地帯として機能せず落ち着ける場がなかったという理由で苦しんでいた子たちも、少なからずいるのではないだろうかと私は考えています。

 

自殺対策について

自殺対策については、よく一次予防、二次予防、三次予防というように整理されて考えられており、その中心は私の主観では二次・三次予防であるように感じております。

 

いわゆる自死遺族をはじめ、離婚や虐待、不登校など、ハイリスクと言われる子どもたちをサポートすることに、自殺対策の中心が置かれているように思われます(少なくとも世間からは自殺対策は遠くものであり、そう思われているように感じます)。

 

こういったハイリスク群に対する二次・三次予防的な発想と対応は大変重要と思いますが、一方で、一次予防が果たしてどのようにされているのかという疑問と、そもそも一次予防が大切にされているのだろうか?という疑問を私は抱いています。

 

一次予防の対象になるのは「ふつう」の子やリスクの低い「大丈夫」な子です。

そういった「ふつう」な子や「大丈夫」な子には、十分なフォローないしはサポートをしなくてよいのでしょうか?

結論から申し上げると、私はそれは「否」と考えています。

 

「ふつう」・「大丈夫」な子の環境を考える

家庭編

ここからは一次予防の対象である「ふつう」の子、「大丈夫」な子について、子どもたちの環境という視点で考えてみたいと思います。

 

子どもたちの環境を占めているのは家庭と学校が主であり、子どもたちの多くは家庭と学校を行き来するのみの行動範囲となっていると言えるでしょう。

 

地域の居場所や習い事などがある子もいますし(それは大事なことです)、旅行をしたりすることもあるとは思いますが、大人と比べてふらっとリフレッシュがてらにどこかのお店に寄ったり、車を運転してどこかに行ったり、一人旅に出たりということが簡単にできないのが子どもたちです。

 

子どもの頃はそれが「当たり前」なので、子どもたちはそのことに関する閉塞感のようなものを感じないかもしれませんが、親は子どもといるとき、どこかでその閉塞感のようなものを感じるものではないだろうかと私は思っています。

強い言葉で表せば、「自由を奪われている感覚」とも言い換えることもできるかもしれません。

 

ここからは「家庭」に焦点を当てて考えていこうと思いますが、家庭で行われる子育ては「できて当たり前」とされる風潮がある一方で、命を預かっているため、そのプレッシャー(経済的な側面を含め)は、相当なものであると考えられます。

子どもは意思を持った人間であるため、親との衝突も当然あるわけであり、正直ストレスを感じることも多くあるでしょう。

 

ところが、「できて当たり前」という風潮が強いために、子育てをストレスと感じたり、「自分の子どもなのに嫌悪感を抱く」ということはあってはならないことと思わされてしまったりしがちであり、さらにはそのように感じる自分のことを「愛のない」人間であるように思ってしまったり(あるいは思われてしまったり)することがあります。

それを他人に知られるリスク(?)を考えると、その思いを吐露することは養育者にとって困難な行為であると言え、ストレスはたまる一方…ひとりで抱えきれないほどになる方も少なくないように思われます。

 

通常、ストレスは弱者に向かいますね。

養育者にとってすぐ近くにいる弱者は子どもです。

養育者が安心して子育てができることが大切なのですが、あらゆる面でそのようになっているとは残念ながら言えない現状において、子どもたちにストレスが向けられる可能性というのは意外と高いように思われます。

 

長くなってきたので、ここでいったんまとめます。

 

・子どもたちの環境、中でも最も子どもに身近である養育者(家庭)は、ストレスを感じやすい状況に置かれていること

・そのストレスは社会で受容されにくい類のもののため、吐き出すことが難しくストレスはたまる一方となる可能性があること

・ストレスは弱者に向かいやすいものであり、家庭における弱者は子どもであり、子どもにストレスが向けられる可能性は案外高いと思われること

 

以上から、子どもは家庭という環境において、虐待などの何かしらのリスクと隣り合わせにあり、いつ二次・三次予防の対象となるかがわからないと言えるのではないかと思います。

 

学校編

続いて、家庭のほかに、子どもたちの環境および行動範囲として大きく占める「学校」について見ていきたいと思います。

 

学校の成り立ちなどについては省きますが、そもそも学校というのは「たまたまそこに生まれた」ということでメンバーが決められ、そのメンバーによって形成されることになった集団組織と言えるように思います。

 

中学・高校になればある程度、学校を自分で選ぶことはできますが、よほどのことがない限りは、自分の生まれた地域・地区にある(あるいは近い)学校に行くのが「当たり前」であり、子どもたちが自ら選ぶということはできません。

 

学校に入ってからも、クラスメイトや担任の先生、もしかしたら自分の座る席すらも自分で選ぶことができないかもしれませんね。

 

学校生活というのは子どもたちにとって、あらゆる「選べない」の中で、「決められている(選べない)」義務教育を学び、何年後かに来る受験などに向けた詰め込み型の教育を受け続けるところと言うことができ(極端ですが)、意外と過酷なシステムではないだろうかと私は思っています。

 

先ほど家庭の話で「閉塞感」と書きましたが、学校ももれなく「閉塞感」のある組織であると思われ、そうした、外からの目が入らない閉ざされた組織・空間というものには様々なリスクがつきものです。

 

先日、沖縄のとある高校で自殺者が出たニュースを目にしました。

その記事では高校生の自殺の理由は部活動による叱責と思われると書かれており、校長と顧問は「指導が間違っていた」とご遺族に謝罪されたとありました。

 

私はこれを見た時に開いた口が塞がらない状態になりました。

なぜなら、これは指導でも叱責でもなく、明らかに「いじめ」と思われたからです。

 

この例をここで取りあげた理由は、閉じられた空間・組織のリスクがここにあるためです。

 

どういうことかいうと、これは私(外部のひとり)からすると明らかに「いじめ」と思われるものなのですが、顧問や校長にとって(学校の内側)は、本当に「指導や叱責」だと思っていたかもしれないということです。

 

顧問や校長は罪を免れる言い訳として「指導や叱責」という言葉を使っている可能性も十分にあると思われます。

 

しかし怖いのは、閉ざされた空間にいると、人はその中で行われていることが「当たり前」となって、何かトラブルが起こったり、「外部」からの刺激が入ったりしない限り、そのことの「違和」に気が付くことができなくなるものなのです。

 

学校というのは、子どもたちにとっては「(毎日当たり前に繰り返される)日常」であり、「決められたルーティン」があるものです。

さらに、子どもたちを預かっている以上、「何もトラブルが起こらないように」という守る力が働きやすい組織と言えるでしょう。

 

 「守る」力が強すぎることは言い換えると「閉ざす」力であり、「閉ざされる」と、外の風は当然入りにくく、集団意識・集団で共有している「当たり前」も高まり、「違和」に気づいたり、「違和」を外に出したりする機会が限りなく少なくなると言うことができます。

 

そのような環境では、沖縄の事件のように、大きなトラブルが起こるまで目に見えないトラブルが起こり続ける可能性もあり(しかも善意で)、子どもたちの「クラス」単位で見れば、クラスで発生する「いじめのリスク」も高まると言えるでしょう(それがいじめかどうかがわからなくなるなどを含む)。

 

子どもたちはただでさえ、身体も心も成長をしながら、日々様々なことを吸収して生きていくため、日々ストレスや不安を感じうる存在です。

つまり、子どもたちにとって学校環境は、その学校風土によってはかなり過酷な環境となりうると言えてしまうでしょう。

 

これも長くなりましたので、ここでまとめます。

 

・学校というのは子どもたちが選べるものではなく、「たまたま」のメンバーで構成されている組織であること

・学校では「選べない」ことの方がもしかしたら多く、「決められたもの」を学び、子どもたちの日常を守るために閉ざされた空間となりやすいこと

・閉ざされた空間には自覚的にいないとそれなりにリスクがあること

・子どもたちは日々成長をし続けているため、ストレスや不安を感じることは常にあり、学校風土によっては子どもたちにとって学校生活が過酷な環境ともなりうること

 

以上から、子どもは学校という環境において、過酷な状況に置かれている可能性があり、かつ、そのことになかなか気づかない構造に置かれており、いつリスクを負うことになるかがわからず、予防を講じていかないと、二次・三次予防の対象といつなるかわからないと言えるように思います。

 

ちなみに、いまはコロナ禍によって、子どもたちはもちろん、社会全体としてストレスや不安が漂っているため、みんな過酷な環境にいると考えて(みんな二次・三次予防の対象)いいのではないかとも思っています。

 

ゲートキーパー養成について思うこと

さて、自殺対策において、二次予防としてよく行われているのがゲートキーパーの養成です。

 

ゲートキーパーとは、自殺の危険を示すサインに気づき、適切な対応(悩んでいる人に気づき、声をかけ、話を聞いて、必要な支援につなげ、見守る)を図ることができる人のことで、言わば「命の門番」とも位置付けられる人のことです(厚生労働省HPより)。

 

この養成研修は世界中で行われており、とても大切なものと思われます。

 

私は高校生の時に自死を考えたことがあるのですが、その時に知人に一度「死にたい」というような言葉を漏らしたことがありました。

その時、その知人から「やばくね」と返され、「あっ、おれやばいのか」とか「これは言っちゃいけないんだな」などと思った経験がありました。

 

その経験から、ゲートキーパー的な存在、ゲートキーパーのようにちゃんと「死にたい」気持ちを受け止めるスキルというのはとても大切かと思っています。

 

しかし、私はそう思いつつ、ゲートキーパー養成について懸念する部分もあります。

それは、この養成によって人々が人の傷み(痛み・悼み)に対して、スキル偏重の関わりとなってしまわないかということと、自殺対策がどこか犯人捜し的な「弱っている人は誰か」みたいなものと捉えられ、それによって逆に自殺対策が機能しなくならないだろうか(本音を話すということがしにくくなるなど)、ということです。

 

ゲートキーパー的な考え方やトレーニングは大切だろうという前提ではありますが、スキル偏重や犯人捜し的になってしまっては元も子もない、というか、みんなにとって快適で心地よい暮らしができるのだろうか、と思うのです。

 

大切なことは、誰かの悲しみや苦しみ(いたみ)を受け止められる「余裕」や「健康(心身ともに)」であり、みんなが「肩の力を抜いて」いられることではないかと私は思います(専門的なサポートなどを否定する意味ではありません)。

 

ちなみに、WOUNDED HEALER(ウォーンデッドヒーラー)といって「傷ついたヒーラー」という発想もあるようですが、詳しくなくて恐縮ですが、それはおそらく、自分の傷を大切にする力を持ち合わせた人のことであり、すべての人にそれを当てはめるのは危険ではないかと感じています。

自分の傷を大切にしながら、あるいはすることで、傷を負った他者と関わること、その際に、ほどよい距離を保ったり、誰かと上手につなげたりすることに役立てられる人のことを指すのかなと思っており、それはそれこそトレーニングなどが必要なものかと想像します。

 

話を戻しまして、みんながゲートキーパー的なスキルを身に着けるということも大切かもしれませんが、ひとりひとりが「余裕」や「健康」「肩の力を抜いて」暮らすようにできる結果、誰かの痛みに気づいたり、それを大切にする余裕を持つことができたり、「しんどいんだね」という共感的な言葉が自然に出てきたりする、そういう方向も大切ではないかと私は考えています。

 

みんながものすごく「幸せ」を感じていなくても、少しでも快適に、余裕をもって暮らすことができるようになること。

これは一次予防とも言うことができます。

それが結果、二次・三次予防を防ぐことになるかもしれないと、そう考えるのです。

 

ゲートキーパー養成ばかりに力が向くと、かえって、ゲートキーパーが機能しなくなったり、バーンアウトしたりする人も出てくれば、スキル偏重となって歪んだサポート・コミュニティができかねないとすら思います(エビデンスに基づいていないのでご容赦ください)。

 

こうして、先述したように、コロナ禍で全体がストレスフルであることを踏まえて、私は今回ゲートキーパー研修をゲートキーパーの養成(スキル取得)に重きを置かず、「全員が少しでも肩の力を抜いて楽に生きていけるように」というコンセプトで中学校でお話をさせていただきました。

 

「一次予防」について私が考えること

ここまで、子どもたちの自殺対策についていろいろ書いてきましたが、それを基に、実際にどのようなことを中学校の授業でお話させていただいてきたかについて最後に書きたいと思います。

 

内容は

みんなにとっての「当たり前」を一度見直してみよう!をテーマに、

「みんな仲良く、いつも元気に」

「人と比べるず、個性を大事に」

「人に頼らず、自立をしよう」

「強く生きていこう」

について、いろいろな角度で考えてみよう!

という話をしました。

 

・・・いったいなんのこっちゃという感じでしょうかね()

今後ひとつずつ、テーマごとに書いていきたいと思いますので、よろしければお読みいただければ幸いです。

 

この内容を作成したベースにあるのは

・全員が少しでも肩の力を抜いて生きていけるために、閉じられた空間の中における「当たり前」というのは実は「当たり前」じゃないかもしれないということ

・みんなが普段いかにがんばって生活をしているかについて、認め合ってもいいのではないかということ

であり、理想ばかり耳にするであろう子どもたちに、社会の「現実」を前に「こんなことを言う大人もいるんだよ」と感じてもらえたらと思って、作成しました。

 

学校の生徒全員に話すため「一次予防」的要素を強く考えましたが、私はこれを1次~2.5次予防とでも言うものと考えており、そういう教育(実践)が子どもの自殺対策において意外と大切なのではないかと思っています。

 

予防を分けて整理することは大切ですが、もっと広く捉えることが大事ではないかと考えており、それはこれまで書いてきた通り、二次・三次予防対象の子でも「ふつう」を装っていたり、一次予防対象の子がいつ「ふつう」じゃなくなるかわからないということがあるためです。

 

時間が短く、また一回限りの授業であったため、削るのがかなり難しく、欲張ってしまったのですが、今回は学校へのアプローチということで学校の中の当たり前を疑う時間とさせていただいた次第です。

 

ちなみにこれを、学校では「命の授業」と命名していました。

個人的にはそのネーミングを正直残念に思いました。

というのも、子どもたちにとって自殺対策というものを「地域課題」や「社会問題」という文脈で、自分事としてとらえてほしいなと考えているためです。

 

別の記事で触れることになりますが、心の教育や「命を大切に」という「命の授業」系のものでは自殺は防げないと私は考えています。

私見も多くなってしまっているのですが、デリケートな大切な問題でもあるので、できる限りエビデンス的なものも入れながら考えて作成していることを最後に書いておきます。

 

何回かに分けて書きますので、ご関心持って頂けましたら幸いです。

そしてまた、こうした内容をお話させていただける地域や学校さんなどありましたら、ぜひお声かけていただけたら嬉しいです。

子どもたちや学校、地域のお役に立つことができましたら幸いです。