kotaro-tsukaのブログ

社会の構造によってつくられる誰かのいたみ・生きづらさなどに怒りを抱き、はじめました。「一人ひとりの一見平凡に見える人にも、それぞれ耳を傾け、また心を轟かすような歴史があるのである」(宮本常一)をモットーに、ひとりひとりの声をきちんと聴き、行動できる人になりたいです。このブログでは主に社会問題などについて考えることを書いていく予定です。

選択的夫婦別姓制度について、姓を変える体験を通じて思うこと

先日Twitterで「選択的夫婦別姓反対」なるタグを見つけ、感じたことをつぶやいたところ、共感もあれば反論もあり…ちっぽけな私の一言でもちょっとしたうねりが生まれ、それほどにこの問題への関心が高まっているのだなと感じました。

 

結論から申し上げて、私は選択的夫婦別姓制度を導入することに賛成です。

ただの理論からそのように感じているのではなくて、自らの経験から、制度導入の必要性を感じています。

 

この記事では、「姓」に関する私自身の体験と感じていることについて書き、選択的夫婦別姓について考えていきたいと思います。

 

ひとつの事例に過ぎないと感じられるかもしれませんが、そうとは言い切れない部分もあることを感じていただければ幸いです。

 

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選択的夫婦別姓

 

ゼロ日婚のはずが、ゼロ日婚とならなかった私たちの結婚

 アメブロにも少し書いていますが、私はこの自由に恋愛をし自由に結婚をするパターンの方が多いであろう時代において、時代に逆行した(ほぼ)「お見合い」で結婚をしました。

ちなみに配偶者のことを「相方」と呼んでいます。

 

 私と相方との周りには現代版「仲人」のような人が数人おりまして、その「仲人」たちが私たちをくっつけようといろいろと仕組み、まんまとくっついたというかたちです(おもしろいように転がったと言われました笑)。

 

 私たち本人はそれが仕組まれたもの、つまり「お見合い」だったとは全然気づいていなかったのですが(笑)、「お見合い」で数回話をするうちにお互い惹かれ合い、一度二人で出かけたくらいで特にお付き合いをすることもなく「結婚しようか」と、そういう展開でした。

 

 ご縁というものはとても不思議なもので、「仲人」たちには感謝してもし足りません。

 

 こうして私たちは「ゼロ日婚」をすることになったわけですが、実際に婚姻届けを出す=世間的(法律として)に結婚が認められるまでには数か月の月日を要しました。

 

 なぜ時間がかかったかは、もう想像ができますよね。

 「結婚をしよう」となって婚姻届を出すにあたって、「姓をどちらにするか」という問題で時間がかかったためです。

 

 唐突ですが、結婚に関して、憲法241項にはこうあります。

 

「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」

 

 ここでいう「両性」は「当事者」という意味であり(同性婚を否定する理由にはなりません!)、つまりは「ふたりの合意のみ」で結婚ができるということなのですが、いざ「結婚」となると、ふたりのみでなく、「姓の問題」による「家の問題」が顕れることを私たちは痛感しました。

 

 なお、「家の問題」というと、親との関係が不仲であるとか、虐待関係等であったとか、戸籍がないとか…実際にはもっと多くの問題があり、「ふたりの意思のみ」で結婚ができないという方々・現実がきっと多くいる・あることが「姓の問題」に触れたことで容易に想像されました…改善していく必要があるなと強く感じています。

 

「どちらが姓を変えるのか」?

 さて、私たちの結婚の話に戻しまして、私たちの結婚では「姓をどちらにするか」という話し合いに数か月の時間とエネルギーを要したのですが、一度「ふたり」の当時の「姓」についての意思を整理しておこうと思います。

 

 まず、私です。

 私は〈姓を変えたいとは思わない、というより、自分が姓を変える日が来ることを想像したこともない、それでいて、「女性が姓を変えるもの」なんていうのはおかしいしナンセンスなので、相方が(相方が同姓を望まないなら)よければ別姓がいい〉

 という意思でした。

 

 そして、相方。

 相方も〈どちらの姓になっても構わない、巷でよくある将来結婚して「旦那さんの姓になるの」みたいなこと(このあたりも最後の方に書いていきます)を夢見ていたわけでもなく、私の意思を尊重したいと思ってくれている〉

 という意思でした。

 

 はい、もし日本に別姓を選択できる制度があれば、ふたりは別姓で無事にゼロ日婚ができたことになります。

 

 でも「同姓強制」がために実際には数か月の時間を要し、そこには「家」という問題が大きく関与することとになったのは明示してきた通りです。

 ここで「家」側の「姓」についての意思も整理しておきたいと思います。

 

 こちらも、まず私の「家」から書きますと、私は長男のため、「今の姓を継ぐ」ことが求められている存在であるのかなとどこかでぼんやり感じていました。

 実際、結婚のための挨拶まわりの時に、祖母には「長男で男一人なんだから姓を変えちゃだめだぞ」と言われました。

 

 しかし正直、私は「姓を継ぐ」ということにそれほどこだわりがないので(先祖代々老舗のお店をやってるとかでもないしなぁとぼんやり)、祖母や親たちには申し訳ないという気持ちをどこかに抱きつつも、別に「それで家族でなくなるわけでもないし」という考えで、その考え方で結婚が進まないことは拒否しようと決めていました(拒否ができない人もいるということはさきほどの家族の問題に含まれていると想像できるかと思います)。

 

 では、相方の「家」はどうだったかという点ですが、結論から言えば、相方の「家」には「姓」のこだわり(これがいわゆる「一般的なこだわり」とは違っており非難の対象にはならないですし、そう私が感じているわけでも決っっしてないことをご理解いただきたいと思います。最後までお読みいただければわかっていただけるかなと思います)があり、姓を残してほしいということでした。

 

 その願いは相方も私も、私の「家」のように拒否すればいいという類のものではなく、ふたりの〈意思〉を伝えながら、何度も話し合いを重ねたものです。

 

 私たちは話し合いをしては、姓をどうしたらいいのかについていろいろな方に相談をし、〈ふたりの意思〉を再度ふたりで確認し…ということを繰り返し、最終的に「私が姓を変える」という条件を飲み、婚姻届けを出すことになったのでした(繰り返しますが、そこまでには数か月の時間がかかりました)。

 

 私のケースは珍しい例(最後までお読みいただければ…)ではあるかと思うので、私はこの「姓の変換」をある程度「前向きに」捉えることができています。

 

 それでも、正直な部分では、先に書いた〈ふたりの意思〉があったので、〈ふたりの意思〉で姓を決めて結婚したかったという思いはありますし、そもそも「夫婦同姓」が強制でなければ、このような話し合いにそこまで時間も労力もかける必要はなかっただろうと思われます(違う話し合いができただろうと思う)。

 

 結婚をするにあたって「夫婦同姓が強制」であったことで、ふたりの結婚に「待った」がかかり、余計な検討の時間や息の詰まるような話し合いをしなければならず、それは正直しんどかったです。

 ただ、私たちの場合はかかった時間と言ってもたった数か月だけで(とがんばって言います)、結果、結婚もできているので「幸せ」な方なのだろうとその時に想像がされました。

 

 これは私たちのひとつの事例ですが、同姓強制という制度である限り、「誰の身にも起こりうること」とであり、結婚生活をスタートさせるにあたって「どちらかが嫌な思いをしないといけない可能性がある」ということだと感じています。

 

 私たちの事例を「塩飽紗枝」と書きましたが、下手をしたら、この制度がために婚約を破綻することになる人たちがいてもおかしくない、そんな可能性が体験から容易に想像されます。

 

 これはいったい誰のための制度なのでしょうか。

 選択できれば人生が違っていた人たちがどれだけいたか、同姓強制のために涙を飲む人がもし(というか間違いなくいると想像される)いたとするならば、悲しくてなりません。

 

 このことを書くと、「だったら、事実婚でいいじゃないか」と言う人たちがいると思われます。

 

 ですが、それは事実婚を喜びとして選ぶ人たちにとってかけられる言葉であって、ふつうに(相続や子どものことなどの関係で必要な)「法律に認められる」結婚を「別姓で選びたい」人たちにとっては、ただの騒音だと思います。

 それを「わがまま」というのも、申し訳ないけど、想像力の欠如と思います。

 私自身、結婚をすることになってそのことに気が付きました(というか、姓の問題を考えたことがなかったです、お恥ずかしいことに…)。

 

 結婚は違う環境で育った人たちがお互いを尊重して生きていく者と思います。

 同姓強制であることは、「姓をどうしようか」というお互いの気持ちを尊重し合うための開けた問いかけよりも、「どちらが姓を変えるのか」というどちらかの気持ちを封じ込める閉じられた問いかけとなりえます。

 お互いを尊重して生きていくはじまりなのに、そうした問いかけを生む制度に対して、私は強く疑問を抱くのです。

 

姓を変えてみてわかったこと―「私は果たして姓を変えたくなかったのだろうか?」という問い

 

 私は結婚後も旧姓を使用しています。

 「じゃあそれでいいじゃん」という声あるのかと思いますが、戸籍上の姓を変えるということはとても不便なことであり、ネットで検索すればその不便さが容易にわかるかと思います。

 したがって、実際にどんな不便さがあるかについてここでは書かず、姓を変えた後に私の体験したこと・感じていることについて書きたいと思います。

 

 仕事・人間関係におけるいくつかの体験と感じたことについてです。

 

 ある日、これまで関わってきた方々と共に、とある本を作成することになりました。

 私はその本の一部を担当することになったのですが、編集者名について担当者とやり取りをすることがありました。

 その際、担当者からこのように言われました。

「お名前の表記はどうしますか?今の姓にしますか?でも、それじゃあ誰が書いたかわからなくなりますよね」

 

 その本は内輪のものであり、旧姓のまま私の名前が表記されることに大きな意味がありました。

 幸いにも、その本において旧姓使用することに問題はありませんでしたが、もし旧姓使用が不可のもの(執筆に限らずそういう“場面”という広い意味において)があれば、それだけで「この人誰だっけ?」となってしまう可能性があるのだなとその時感じました。

  

 そのほか、とある方に「大塚くん」と呼ばれた際に、呼んだその人が続けて「あっ、もう大塚くんって呼んじゃいけないんだった」と小さく言っていたことがありました。

 私が「呼んでいいよ」と言えば済む話かもしれませんが、これまでの自分ではないと捉えられる可能性があるんだなと、その時感じました。

 

 これらは広く考えれば、仕事におけるアイデンティティや、これまで培ってきたものが失われる恐れがあるということと言えるように思い、「望まない」姓の変更であれば、経験したくないものであるように感じています。

 

 とある活動で新聞に取り上げていただいたとき、記事には旧姓で載せてもらったため、「あの大塚さんね」と関係者の人にわかってもらうことができ、相方も「旧姓を使用したからみんな知ってくれてよかったと思って」と声をかけてくれたこともありました。

 

 結婚をして姓が変わることは「選択制」にしても起こることですが、仕事をしていくうえで、自ら選択して(喜びをもって)姓を変えた場合と、同姓強制によって変えざるを得ずに姓を変えた場合とでは、大きく異なるものであることは明らかだとその時に体感しました。

 

 結婚をしてから私は「姓」の問題に向き合うようになりましたが、このような体験をいくつかしていくうちに、ある時ふと「私は姓を変えたくなかったのか?」という問いを抱いたときがありました。

 

 それは、冒頭の方で書いた「ふたりの意思」ではなかったから「変えたくなかった」と問いと答えがすっと出る類のものではなく、ちょっとした哲学のような問いとして私の頭の中をぐるぐると回っていました。

 いま、その問いに対する私なりの答えを出すとすると、私の答えはこうです。

 

 「私は姓を変えたくなかったのではなくて、私は私のままでいたかった」

 

 何言ってるかよくわからないって感じですかね笑

 

 この答えはどこか矛盾した表現に聞こえてしまうかもしれませんが、私の場合、この答えにスッキリしています。

 

 私の場合ですが、姓が変わることがいやなのではないのです。

 自分の姓を失う(あるいは奪われる)ことがいやだったのです。

 

 私はそのことに気づいて、胸がすっとしました。

 

 「姓が変わる」理由は、同姓強制、また家父長制に類する「家」という概念などによる制度都合上のものであり、つまりは「自分の意思」ないし「ふたりの意思」によるものではありませんでした。

 

 それは自分の姓や自分の姓で生きてきたことの効力がなくなる禍のような感じがして、それはいやだった。

 

 結婚をする際、(受け取りは拒否しましたが)「結納金」という制度(のようなもの)があり、それは「姓を変える方にお金が払われる」というものです。

 これは「私の旧姓の家族から私が買われる」ような構図であり、「自分が買われる」こと、「自分の意思ではなく、新しい家族にお金や力で取り込まれる」感じがすることが、いやだった。

 

 「ふたりの結婚」なのに「姓が変わること」で「自分の姓のままであれば見られなかった」婿養子として周りに見られ、「婿養子」かのようなふるまいを求められる(そうな)雰囲気が、いやだった。

  

 自分で選んだわけではないのに「もう旧姓で呼んではいけないのだ」と思われたり、「自分の旧姓の家族と家族として認められなくなる」ような感じが、いやだった。

 

 …「姓を変えること」がいやなのではなくて、姓を強制的に「同姓にする」ということで生じるたくさんのすれ違いや喪失・傷みがいやだったのだと私はこれまでを振り返っています。

 

 ゼロ日婚とならず、姓についての話し合いが行われていた間、私の周りにはジェンダー男女共同参画などにお詳しい方や理解ある大人たちがいて、相談にたくさん乗ってくれていました。

 

 その方々がは姓が変わることで起こりうることを私に教えてくれたり、「姓が変わろうとあなたはあなた」と言ってくれたりして、それは今これらのすれ違いや喪失・傷みを経験している中で、とても大きな支えとなっているように今思います。ありがたい限りです。

 

 でもきっと、私のように専門的に相談に乗ってくれたり、よき理解者がいたりする人ばかりではないだろうと思います。

 そういう人たちは、ひとりでこういう傷みを抱え、誰にも理解されずに生きている可能性があります。

 このことは生きづらさや孤立の問題でもあり、特権を持っている人が上から「我慢しろ」と言うようなものではありません。

 もし選択できるようになっていたら、というただそれだけで、この生きづらさや孤立の問題が解消されうるかもしれないのです。

 それは社会にとって有益なことと思います。

 

 私は姓を変えたくなかったのではなくて、自分自身のまま生きていける制度や社会の理解がほしかったのだと、そう思います。

 

姓を変えた立場から見る選択的夫婦別姓反対派の意見について思うこと

 

 ここまで、私の「姓の変換」にまつわる体験や感じてきたことを書いてきました。

 

 不完全な内容ですし論理的ではないところもたくさんあるでしょうし、ツッコミどころは多いかと思い、「つべこべ言うな」とか言われるのかもしれないなと思っています。

 

 そう思われても別にいいですし、建設的なご意見についてはぜひいただきたいと思いますが、あくまで、「同姓反対」ではなく、「ふたり」がよりお互いを尊重した夫婦の在り方を模索する「選択肢が増えるように」と望んでいるに過ぎません。

 

 私の例は別姓が選択できるようになっていれば、結婚が違う経験となり得ましたし、私以外に違う経験となり得た人たちが多くいたであろうことに想いを馳せてもらえればと考えて、この記事を書きました。

 

 一応ここで、よくある《反対派のご意見》についても、私の経験から思うことを書かせていただこうと思います。

 

 まず、《事前に姓を変えたいかどうかについて意見が合う相手を選べばいい》という意見をお聞きしますが、これはできなくはないのでしょうけど、私のように、それを確認する間もなくお互いが惹かれ合うパターンも世の中にはあると想像してもらえたらなと思います。

 

 マッチングアプリなどが流行っている(?)ようですが、その欄に「姓を変えたいと思うかどうか」の欄はあるのでしょうか。

 私はやったことがないのでわかりませんが、パートナー探し(?)は物件探しのように固定されたものが相手ではないので、条件が完全に一致すればいい・意見が合う相手であればいいというものではなく、お互いを尊重し合えるかというところが大きく影響するのではないでしょうか、と私は個人的に思います。

 

 また、《姓でもめるくらいなら結婚しない方がいい》というのも聞きますが、私の事例は惜しくも(?)ゼロ日婚を逃したものであるように、「姓が揉める仕組みになっているから揉めて結婚ができなくなる」という逆の可能性を想像してもらえたらと思います。

 つまり、姓でもめずに済む選択肢が増えれば、すんなり結婚できるパターンもあるということですね。

 相方は今回「姓を変えない」ことを求められたため、「私は○○(自分と同じ姓)という姓の人じゃないと結婚できないってことなのか?」と悩んだと言います。

 せっかく出会った人と結婚する際に、「姓」の問題が立ちはだかるというのは、可能ならない方がよくないでしょうか。

 

 ちなみに、《姓で揉める》ことについて思うのは、選択制ではなくどちらかが強制される仕組みなので、揉めることは自然に起こりうるだろうと考えられます。

 私たちのように、ふたりの意見が合っていたって、それが「選択」できないのですから、そりゃ揉めるに決まっています(私たちの場合は話し合いでしたが)。

 制度絶対ではなく、「誰のための制度なのか」ということを少し考えてもらう機会になればいいなと思います。

 

 そして、これは私自身反省しているのですが、私は「姓を変えたいとは思わない、というより、自分が姓を変える日が来ることを想像したこともない」と書きました。

 これは今考えると、私もどっぷり男性優位社会に無意識にいたということだと思っています。

 《反対派の意見》に《男性も姓を変えられるのだから女性で姓を変えてほしくない人は男性にそう言えばいい》というものがあります。

 これは特権のある立場・優位な立場にいる人たちが力を行使しているに過ぎず、マイノリティの側から社会を見ようとする想像力に欠けた言動です。

 

 これは私がある女子学生さんから教えてもらった話ですが、今20代前半の子たちでも「女性は将来名字をもらうもの」と思っていたという子がいたり、女子学生さんたちが目にする雑誌に、結婚することについて「あの人の名字をもらう」というストーリーが描かれていたりするようです。

 

 他の女子学生さんはその子が中学生の頃(?)に、「女性は将来姓が変わるから下の名前の印鑑が贈られた」という経験があると、私に話してくれたことがありました。

 

 このように、女性は将来「姓が変わるかもしれない」「女性が姓を変えるもの」という社会的に無意識に存在する教えのようなものを吸収しながら育つことが今もあり(明らかに男性よりも多くある)、これは社会構造の問題です。

 

 《男性も姓を変えられるのに、男性に変えてとなぜ言わないのか》などと女性に対して言うのは、その社会にあるパワーを理解していない浅さを露呈しているように思います。

 女性や個人の責任に転嫁してこの問題を語ることはある種の暴力です。

 ましてやそれを男性が言うというのは特権・力の行使だと言わざるを得ず、私自身、自覚していないとなと反省も込めて思っているところです。

 

 そして、これまでに少しずつ触れてきたのでほぼスルーしますが、《事実婚でいいじゃないか》とか《旧姓使用でいいじゃないか》という意見もよく聞きますが、法律で認められる結婚ができる人が増えるならそれに越したことがないと思うのと、結婚してみて(姓を変えてみて)感じるのは、「旧姓ではなくて本姓なんだけどな」ということであって、「本姓」で生きていける人が増えるならそれに越したことはないと思います。

 お互いが「本姓」のままで生きていきたいなら、そうできたらそれでよいと思います。

 

 最後はこの「お互いが本姓で生きる」ということに関連するのですが、《家族の絆が失われる》説について書かせていただこうと思います。

 

 対人援助等に関わっている私がずっと思っていたこと、そして私が結婚してみて改めて感じているのは、「家族」という枠に囚われ過ぎていることに対する違和感です。

 私は姓を変えたことで、いままで知らなかった人から「息子」と呼ばれるようになりました。そのことを「いやだ」と思っているという意味では決してないのですが、でも、家族ってそういうものなのかな?と思っています。

 

 「家族」ってなんでしょうか。「家族の絆」ってなんでしょう。

 書類上「家族」であれば、あるいは、血縁がつながっていれば「家族」と見なされるかとは思います。

 でもそこに「家族の絆」があるかまではわからないはずです。

 

 そして、たとえば、結婚はしていないけど同棲している人たちというのは「家族」ではないのでしょうか。

 シェアハウスをしている人たちはどうなのでしょう?

 「家族のように思って」暮らしている人たちも多くいるのではないでしょうか(シェアハウスもしたことないのでわかりませんが)。

 その人たちには「家族の絆」はないのでしょうか。たまたま同じ空間にいるというだけの人たちなのでしょうか。

 

 また、人の話をしているのに動物を持ち出すのはおかしいと言われるかもしれませんが、いわゆる「ペット」は「家族」ではないのでしょうか?

 ペットのことを「家族」と言うことに反論する人は今はほとんどいないだろうと思います。これも時代が変わってきて、大切な存在に対する価値観が変わってきたためだと思います。

 

 話を戻しまして、私たちは「家族」というものを書類上・法律上で規定されたものとして、枠にとらわれ過ぎているように思います。

 「家族」のかたちというのはもっと多様であっていいはずですし、むしろ、多様でないと「不健全」に陥りやすいのが「家族」というものだと私は思っています。

 

 どういうことかというと、たとえば、

 「家族だから話し合えばわかりあえる」

 「家族だから仲良くするべき」

 こうした言葉を聞いたことはないでしょうか。

 私はこれまでよく耳にしてきました。

 そしてそのたびに、「ハッキリ言って、こんなの幻想だ」と思ってきました。

 

 なぜなら「家族」といえども、人間関係だからです。

 人間関係なのだから、合わない人・苦手な人もいる(いていい)し、ずっと仲が良い人間関係なんてそもそも珍しいものです。

 加えて、ずっと仲がいい人間関係ができるのは「多少の距離」があるからというケースが多いかと思われます。

 「家族」は家の中という閉ざされた空間であり、とても近い距離に人間がいるため、かえって「危険」を孕んでいるとも言えるように私は考えています。

 もしかしたら「お互いを尊重する」思いや振る舞いを時に意識して行う必要があるとすら言えてしまうかもしれません。

 

 虐待やDVなどは「家族」となったことで起こりやすくなると言われます。

 「家族だからわかってくれて当然」

 「家族だから甘えを許してくれて当然」

 「家族だから自分のことを理解してくれて当然」

 「家族だから支配してもいい」…といった幻想(これだけで括っていい問題ではありませんが)が生まれて起こります。

 それが証拠に、虐待やDVモラハラとかも多いかもですね)をする人の中には、外では「いい人なのに」という人がたくさんいます。

 

 私の家族の中にも、外では「いい人」がいました。

 内では残念ながら「いい人」ではありませんでした。

 

 …果たして、「家族」とはなんでしょうか。「家族の絆」は何をもって計測されるのでしょうか。

 

 《同じ姓であることが家族の絆を育む》という考えがありますが、これはこうした現状においてとても「お幸せ」な発想であると私は思っています。

 

 「家族」において「姓が同じだから」絆を感じられるというケースもあるのでしょう(わかりませんが)。

 しかし、「家族だから」「姓が同じだから」という枠を越えたところに、本当に「私を大切に思い、大切にしてくれる人がいる」ということは多くあります。

 むしろ、そういう出会いやつながりこそを私たちは「絆」と呼び、それが当たり前にある社会をつくる必要があるのではないでしょうか。

 

 私は親せきなどから「やっぱり最後は家族しかいないんだよ。所詮他人は他人だから」という言葉を事あるごとに聞いてきました。

 一理あるとは思っていますが、そう言う人たちが「家族」に傷つけられ、「家族」に過度な我慢を強いられている姿を目の当たりにしてきたのも事実です。

 それは「家族しかいないから我慢している」わけであり、元も子もない矛盾を感じてきました。

 

 「家族」であれば、ずっと一緒に暮らしていれば、同じ姓であれば、絆が育まれるなどありません。

 絆が感じられる要素が「同じ姓であること」というのは、それは「きずな」ではなくて狭い「ほだし」に縛られているだけです。

 

 《親子の姓が違ったら子どもがかわいそう》という話もあるようですが、今の日本社会で「姓が違う」のは離婚が前提の社会だからという部分が大いに影響していると思います。

 

 別姓選択が進んで「お母さんじゃなくてお父さんと同じ姓がよかった」と言われることや、「みんな同じ姓がよかった」と思わせることも確かにあり得るかと思います。

 

 そうしたら、子どもが姓を選べるような制度を検討していてもいいかもしれませんし、「山田・田中・太郎」のように両親の姓を両方使えるようにしてもいいのかもしれません。

 

 「絆」を「愛着形成」の問題と勘違いしている人もよくいますが、愛着形成は「同じ姓」でされるということはありません。

 そうであれば、愛着障害となる人はすべて親と同じ姓ではなかった(離婚や死別後の再婚などで別姓となるのが日本なので傾向は高いかもですが)となるはずですが、そんなこと間違いなくないでしょう。

 

 繰り返しますが、「姓で家族の絆を感じる」というのはあるかもしれませんが、ひとつの在り方に過ぎないだけであり、そのことを子どもが感じられるような子育てや家族・地域・社会になることこそが大事だと思います。

 

 家族であろうと人間関係であり、お互いを尊重し合い大切に思うやり取り・関係性があることで「絆」は育まれるものです。

 

 反対派のご意見に対しては、もっと「制度が違ったら」ということを「人権」や「マイノリティ」、「そもそも論」の視点から想像してもらいたいなと思いますし、「家族」や「絆」というものをもっと広く捉えてほしいなというのが私の率直な思いです。

 

私が姓を変えた理由―「家族」を思う

 長々と書いてきました。

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

 

 最後に「私が姓を変えた理由」について書き、この記事を終えようと思います。

 

 私が姓を変えた理由。

 それは、東日本大震災と関係があります。

 

 私の相方の住む地域、相方のご家族は東日本大震災で被災をしました。

 相方のご家族にはいわゆる「行方不明」になられている人がいるのです。

 

 相方のご家族が姓にこだわった理由は、「現在「行方不明」になっている家族がもし(持ち物でもお骨でも)帰ってきたときに、姓がなくなっていたら申し訳ない」というものでした。

 

 今の親世代に「家制度」の感覚が残っていることを私は否定していません。

まして、東日本大震災が起こった地域は繰り返し津波被害に遭っている地域であり、家族すべてが犠牲になることについては、歴史上これまでも考えるべき題として扱われてきました。

 「跡を継ぐ」ということが簡単なことではない地域であり、重要なことである地域なのです(少なくとも私の所管やこれまで見てきた資料や人との出会いから感じています)。

 

 家族・地域の文化や価値観を押し付けられては困ってしまうということももちろんありますが、だからといって「家族や地域としての願い」を蔑ろにすることは、私にはできません。

 

 別姓が選択できれば、そのことをさほど考える必要はなかったかもしれません。

 私が姓を変えること=姓を残すことで、ご家族や地域の願いに沿え、安心できるのであれば、そしてまた、「姓を変えることは女性が半ば強制的に押し付けられてきたこと」であるということを考えた時に、私は男性としてこれを引き受けてみようと思いました。

 後者の方だけ切り取れば、案の定「こんなの体験しなくて済むならしなくていい体験だな」と感じています。だからこうした記事も書いています。

 

 別姓を当たり前に選択できるときがきて、もし私が旧姓に戻せる、いえ、本姓として生きられるようになったとしても、相方の「家族」が安心して暮らせないなら私は姓を戻すことはしないでしょう。

 でもそうでないなら、「ふたりの意思」で生き直していけたら、それはうれしいことです。

 大事なことはここからで、「仮に私が姓を戻したとしても、相方のご家族が帰ってくれば、お会いさせてもらう」つもりです。

 残念ながら、私は一度もお会いしたことがありませんが、お会いしたいと思うのは「相方と血がつながっている人」、「家族」だからではなく「相方の大切な人」だからです。

 「姓が同じだから」ではなく、「絆」を感じているからです。

 

 私の例は個別に見たら珍しい例ではあるかと思います。

 しかし、同姓強制の社会では、そういった(さらなる)喪失や傷みを経験しないといけない人が多くいるという構造です。

 決して一部の人のわがままではありません。

 ひとりひとりに人権があり、ひとりひとりに様々な事情があります。

 それが姓を選択できるということでもし改善に進むなら、それでいいのではないでしょうか。

 あなたの周りにいる子どもが将来望むかたちで結婚できる可能性が高くなるとしたら、それは喜ばしいことではないでしょうか。

 

 「家族」というもの、「家族の絆」とやら(今更ですが、私は絆という言葉が嫌いです笑)の健全さを取り戻すためにも、選択的夫婦別姓は私は必要だと思います。

 私は「同姓」にする立場でしたが、強制的に同姓にする在り方は、もう私の(上の?)代で終わりにしましょう、という提案でした。