kotaro-tsukaのブログ

社会の構造によってつくられる誰かのいたみ・生きづらさなどに怒りを抱き、はじめました。「一人ひとりの一見平凡に見える人にも、それぞれ耳を傾け、また心を轟かすような歴史があるのである」(宮本常一)をモットーに、ひとりひとりの声をきちんと聴き、行動できる人になりたいです。このブログでは主に社会問題などについて考えることを書いていく予定です。

「人と比べず、個性を大事に」という矛盾

更新が滞ってしまいましたが、「みんな仲良く、いつも元気に」(以下の①)に引き続き、中学校で行った自殺対策の授業内容について書いていきたいと思います。

 

改めまして、この授業で扱ったテーマについて書きますと…

みんなにとっての「当たり前」を一度見直してみよう!ということで以下

「みんな仲良く、いつも元気に」

「人と比べず、個性を大事に」

「人に頼らず、自立をしよう」

「強く生きていこう」

について、いろいろな角度で考えてみよう!という話を中学生にさせていただいた次第です。

 

この記事では、②の「人と比べず、個性を大事に」について実際に考えてみたこと、私が中学生に提示したことについて書いていきます。

 

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<a href="https://pixabay.com/ja/users/geralt-9301/?utm_source=link-attribution&utm_medium=referral&utm_campaign=image&utm_content=4266442">Gerd Altmann</a>による<a href="https://pixabay.com/ja/?utm_source=link-attribution&utm_medium=referral&utm_campaign=image&utm_content=4266442">Pixabay</a>からの画像

 

 

人と比べずに個性を大事にする?

私はまず生徒たちに、自分の長所や得意なことを考えてもらい、教えてもよい人は隣の人に伝えてもらうようお願いしました。

 

そして、その理由も書けるようであれば紙に書いてもらいました。

 

そもそも中学生が自分の長所や得意なことを書いたり、誰かに伝えたりするということは結構ハードル高いかなと思ったのですが、意外とみんな積極的に取り組んでくれていました(それもまた圧があるのかな…と思ったりもしました)。

 

さて、これをしてみてわかることは、「長所」や「得意なこと」というのはおそらく「誰かや何かと比べたことで見つけた」ものであるということです。

 

たとえば、「長所」や「得意なこと」というと、「足が速い」とか「数学が得意」、「明るいところが長所」などが挙がるかと思うのですが、それらは「学校で一番」足が速いとか、「国語に比べて」数学が得意とか、「他の生徒と比べて」明るいというような、枕詞ではないですが「比較」の前提があって見出されます。

 

つまり、その人の「個性」は「誰かや何かと比べること」によって見出していくことができる、あるいは、「誰かや何かと比べること」はその手助けとなるとも考えられるのです。

 

厳密には「個性」=「長所」や「得意なこと」ではないですし、それらに限定されて使われる言葉・ものではありません。

広辞苑では「個性」という言葉は「個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質」とあり、そこには「他人の目」が関わるということが明確に記されています。

したがって、ここでは「個性を見出すためには人や何かと比べる」ということが❞自然発生的❞に起こるということを感じてもらうために長所や得意なことを選びました。

 

学校ではよく「個性を大事に」と言う一方で、「人と比べる」ことをなぜか否定的なものとして扱っているように感じます(あくまで私の体感ですが)。

 

「比較する」ことが自然発生的なことである以上、「比較すること」を否定的に扱うのではなく、「人と比べてもいい」という肯定的なメッセージも必要なのではないでしょうか。

 

「自分を認めてもらう」仕組みで成り立っている社会

 

さて、「比較すること」が自然発生的なことであると書きましたが、私たちが暮らしている社会に目を向けるとそれはなおのことそうであるように感じられます。

 

私たちの社会は「自分を認めてもらう」ことで成立している部分があるためです。

それは子どもたちにとっても例外ではありません。

 

子どもたちが社会から「認めてもらう」場面として身近なものは、テストや進学の場面がわかりやすいでしょう。

 

少し乱暴な書き方かもしれませんが、子どもたちはテストの点数を高く取ることで「しっかり勉強しているな」とか「賢い子だな」と認めてもらい、進学というのはそうした前提があって、「この学校に入学してよいかどうか」が決められる(認められる)ものです。

 

進学に関してはテストの点数だけでなく、冒頭に書いたような「長所」や「得意なこと」などが問われ、「他の人と比べて」自分とはどういう人間であるかをアピールする場面すらあります。

 

文化人類学者の磯野真穂氏は著書『ダイエット幻想』で、過食や拒食の問題を他者や社会との関係性、愛する/愛されるといった承認欲求などを通じて綴っておられますが(それだけではありませんが)、そうした中で

 

この社会は、承認欲求を否定しつつ、一方でそれを加速させるような構造をとっているため、皆さんが自分らしさや個性を探せば探すほど、他人と自分との無限比較に陥って、満たされない承認欲求に苦しむ可能性が高くなります。

 

と指摘しています。

 

また、

自分らしさや個性とかいった言葉を思い浮かべる時、「唯一無二のかけがえのない、どこかに存在する《わたし》という存在を思い浮かべるはずです。

 

この唯一無二の《わたし》探しこそが、他者との終わりなき比較の第一歩になり得ます。

 

 と述べており、「個性を大事に」という学校現場や社会で当然よしとされているそれ自体が「他者との比較」のはじまりであると言及しています。

 

さらに、「個性」について(ここでは《わたし》や自己とされていますがほぼ同義かと読み取れます)

 

《わたし》は自分の中ではなく、他者との差異の中に存在しているのです。《わたし》と異なる他者が《わたし》を存在させており、他者とは違う《わたし》が他者を存在させています。

 

自分とは誰かという問いを立てる時、必ずそこに自分ではない「他者」を見出し、それを自分と対立させることで自己を見出します。

 

と書かれています。

 

私はこの考え方に同意する、というよりも、この社会をひとりで生きていない以上、他者との関係性の中で「自分」を考えること、つまり、他者や何かと「比べながら個性を大切にしていく」と考えた方が、理にかなっているのではないかと考えます。

 

繰り返しになりますが、学校は「人と比べる」ということを否定的に捉える一方で「自分らしさ」を大事にさせようとしているように思われます。

 

そうだとすると、それは「自分らしさ」は自分の内側にあるものとして自分の努力のみで見出すべきものとし、「人と比べる」現実があることを無視しているようにも映ってしまいます。

 

上下関係などがあいまいである小学生低学年くらいまでは、もしかしたらそれでもいいのかもしれません(最近はスマホの普及率などを含めわかりませんが…)。

しかし、中1ギャップと言われれますが、小学校から中学校に上がっての環境の変化に順応できない子どもたちがいるように(そこには様々な理由がありますが)、日本の教育現場は中学生になった途端に上下関係が厳しくなったり、部活動や受験などで誰かと競う機会ができたりするといった、突如として「社会の現実」をつきつけられる世界でもあるように思います。

 

そのことの是非についてはここでは書きませんが、そうであるならば「人と比べることで成り立っている現実」を早いうちから子どもたちと丁寧に共有する方が健全ではないでしょうか。

 

「比べる」ことの負の側面

 

ここまで、私たちは自己(個性)を見出していくために「誰かと比べる」ことを当然のように(自然発生的に)経験し、社会もそれを前提として成り立っていることについて書いてきました。


一方で、先ほどの磯野氏の言葉にもあるように、私たちは「承認欲求を否定しつつ、それを加速させる社会」にいることから、「他人と自分との無限比較に陥」りもがき苦しむことがあります。

 

確かに「比べる」ということで、自分自身が劣っている存在であると感じたり、「ふつうじゃない」と自己否定に陥ったり、孤立を深めたりすることはあるでしょう。

 

実際私も、これまで子どもたちや学生等と話をしてきた中で、「人と比べてしまう」ことを悩んでいるという声をいくつか耳にしてきました。



ある子は私に

「受験が近くなってきたからインスタは消した」

と話してくれたことがあり、SNSに疎い私はそれを「余計な時間を使わず勉強の時間に割くため」と思っていたのですが、その子はその理由を

「インスタでキラキラしている人たちの投稿を見ると(比べてしまって)メンタルがやられるから」

だと教えてくれました。

 

インスタの例は「自分が苦しい時にそうでない世界がある」という比較であるため、ここでは少し論点がずれてしまいますが、いずれにしても、私たちがいかに「比較」の波に飲まれて暮らしているのかを感じさせるエピソードであるように思っています。

 

また、「生きづらさ」について語られているこちらの記事

「なんか生きづらいかも」と思う瞬間について話し合ってみた

には

SNSであっても周りと比較してしまう。その影響で、自分もこうあるべきと決めつけてしまう

 と綴られています。

 

「比べる」ことは自然発生的に起こるのですが、扱い方によってはひどい劣等感や誰かへの攻撃の源としてしまったり、生きづらさを感じてしまったりするものであるのだとわかります。


だからと言って、「比べる」ことは自然発生的に起こるのですから、ここでも磯野氏の言葉を借りれば

他人のことを気にするなというアドバイスは(略)他者が《わたし》を存在させ、そして、その他者に承認されることで《わたし》は生きていけるという事実が存在する以上、気にしないというのはかなりの高等技術

であり、容易なことではないのです。

これを簡単に言えば、「人と比べず、個性を大事に」するということは容易なことではなく、むしろ矛盾しているメッセージであり、その通りに生きていくということはかなり難しいことだということです。

 

したがって、大切なことは「比べる」ことや「比べることで発生する結果」を自然なものとして捉え、否定せず、そしてまた「比べること」を隠さず、どのようにコントロール(付き合う・大切に扱う)することができるかについて考えることではないでしょうか。

 

比べる「力」

 

さて、ではどのように「比べる」ことをコントロールするかについてですが、これは簡単に答えが出るものではなく、ひとりひとりが納得するかたちで使い方を見つけていくことや、もしかしたらその過程そのものが大切であったりするものなのかもしれません。

 

ひとつ私が「こういう考え方がある」と生徒に提案をさせていただいたのは、松本俊彦氏らの著書である『こころの科学189 中高生からのライフ&セックスサバイバルガイド』において、『どうして他人と比べるのをやめられないのか?』というタイトルで執筆をしている前川浩子氏が、人と自分を比べるようになることを「成長の証拠」であると指摘していることでした。

 

詳しくは著書をご覧になっていただければと思いますが、前川氏は「比べる力」は成長に伴って身に着くものであることであり、それを肯定的に捉えること、また、「比べる対象を過去の自分や憧れの対象にしてみる」といったように「比べる」ことを自身のエネルギーにすることについて提案されています。

 

「比べる」ことは上記したような劣等感や孤立感のようなものを生んでしまうこともあれば、「誰かを自分よりも下に見る」といった時に残酷な部分もあります(前川氏もそのことに少し触れています)。

ただ、憧れの対象や「なりたい自分」と「比べた」時、それは「比べてしまう」ことを自身のエネルギーにすることができるというポジティブな働きにすることもできるわけです。

 

「ポジティブであることがいいことである」という意味では決してありませんが、自死に追い込まれる人の多くは孤立や無力感、無価値観などを感じると言われ、それは「比べる」ということがネガティブに働いたときに陥りやすい状態と近いものを感じます。

 

もし「比べる」ことを違った視点で(視野狭窄に陥らないという意味でも)捉えることができたなら、子どもたちにとっての「生きづらさ」が減り、苦しんでいる人の苦しみが軽減されることはないでしょうか。

また、「誰かと比べながら個性を見つける」ことは、言い換えると「ひとりきりで個性を見つけさせないこと」とも言えます。

それはもしかしたらひとつの自殺対策となりうるのかもしれません。

 

まとめ

 

中学生への研修内容、②については以上となります。

 

「人と比べず、個性を大事に」というのも、①同様に誰もが「よい」と思って「疑わないもの」かと思います。

次回以降の③や④で触れることになるため、ここまで書かずにいましたが、おそらく「人と比べず」というのは「甘やかさない」ために言われるようになったのではないかと想像しています。

 

子どもたちを「自立」させようと目指している(であろう)学校において、「甘やかす」ということはタブーなのでしょう。

 

しかし、私たちは「個性を大事にする」という謳い文句を口にしながら、その方法を丁寧に考えるということはあまりしてこなかったように思います。


もしかしたら、その方法すら「自分で考えるべき」ということなのかもしれませんが、それは成長期(思春期)にある子どもたちにとっては特に、孤立のリスクを高めるものであると自覚する必要があるように考えます。

 

他者や社会とどのようにつながって生きていくか。

比べる前提がある社会で、どのように「自分らしく」生きていくか。

そうしたことを、「人と比べず」として蓋をしてしまうのではなく、もっと柔軟に話し合っていく必要があるように思います(もちろん人と比べないでいられる人もいるとは思いますが、そのことも含めて話し合えるといいのではないかと思います)。

 

その問題意識をもとに、今回子どもたちにこのようなお話を(簡単に)させていただき、人と比べてもOK、無理して個性を見つけようとがんばらなくてもOK、そんな考え方もあることをお話しさせていただいた次第です。

 

子どもたちが社会で自分らしく幸せに生きていけることを望まない大人はいないでしょう(特に学校現場には)。

そうであるならば、社会の現実を前に(社会を変えていくことも視野に入れながら)誰もが経験する「人と比べること」を否定せず、「比べること」による正も負もどちらも大切に扱えるように、大人が伴走することが大切なように私は考えるのです。