「人に頼らず、自立をしよう」という大人の丸投げ
引き続き、中学校で行った自殺対策の授業内容について、細かく書いていきたいと思います。
改めまして、この授業で扱ったテーマについて書きますと…
みんなにとっての「当たり前」を一度見直してみよう!ということで以下の4つ
①「みんな仲良く、いつも元気に」
②「人と比べず、個性を大事に」
③「人に頼らず、自立をしよう」
④「強く生きていこう」
について、いろいろな角度で考えてみよう!という話を中学生にさせていただいた次第です。
この記事では、③の「人に頼らず、自立をしよう」について実際に考えてみたこと、私が中学生に提示したことについて書いていきます。
自立ってなんだろう?
授業ではこのあたりから時間がなくなってきたので(想定通りではありました、言い訳ではないです笑)、ここでは特に生徒さんたちの声を教えてもらう時間を設けず、
まず生徒さんたちに、自立の定義について尋ねつつ、goo国語辞書の定義を紹介しました。
goo国語辞書によると、自立とは
他からの支配や助力を受けずに、存在すること
とあります。
他からの「支配」はまだしも「助力」を受けずに存在するということはどういうことなのでしょうか。
そもそも中学生になると、途端に「自立」という言葉を耳にするようになるように思うのですが、これは江戸時代の頃の元服式が影響しているのかな?と個人的に思っています。
地域などによって違いはありますが、元服式は大雑把に言ってしまえば、15・16歳になると「一人前」とされる儀式、大人になる儀式であり、女性に関してはこの年代で子どもを授かる人もいたと言います。
その名残なのか、中学生になったら「自立」を掲げられ、突如「進路を自分で決めましょう」とされる、そんなイメージが私の中にあります。
さて、話を戻しまして、「自立」というのが「他からの支配や助力を受けずに存在すること」であり、中学生で言えば「進路」を「自分で決めてそれで生きていけるように目指す(存在する)」と言えるのだとしたら、それは果たして生徒さんたちにとってよりよい進路を選ぶことができるのでしょうか。
そんな思いを持ちながら、私は生徒さんたちにこのように質問をしてみました。
「将来、人類学者として活躍できるようになりたいとしたら、どうしたらいいか?隣の人に説明してみてください」
…生徒さんたちは意外と説明しようとし始めたのですが(笑)、おそらくほとんどの生徒さんにとって「人類学者」という言葉ははじめて聞く言葉・職業であり、「人類学者ってなに?」と思ったことと思います。
当然、どうしたら人類学者になれるか説明できるはずもありません。
少しいじわるだし屁理屈なだけな感じもあるのですが(笑)、私がここで生徒さんたちに伝えたかったのは、わからないものは調べないとわからないということと、誰かに聞いたり教わらないと出会えないものもあるということです。
当たり前ですが、私たちは選択肢を知らなければ、“それ”を選ぶことができない存在です。
「自分で調べることが自立である」という意見もあるかと思いますが、それでも調べるためのツールを知る・得るためには誰かの助けが必要です。
近年、SNSやオンラインの普及に伴い情報格差に注目が集まりつつあるように思いますが、今後ますますそうした技術が社会で活用されていくのがスタンダードになるならば、なお、そうしたツールや方法に関する情報を誰かから教えてもらうことが必要となるでしょう。
情報を「調べる」という場合も、「人類学者」という言葉を知らなければ「人類学者」と検索することができないように、「調べられる情報」やその周辺の情報を誰かが用意してくれていないと結局知らないままになります。
選択肢として「それ」があることを知らないと調べることすらできないわけです。
これは教育格差に通じますが、その生徒さんにはもしかしたら「人類学者」としての素質があるかもしれないのに、「自分でなりたいものを調べろ」とだけされてしまって「人類学者」という選択肢にたどり着かなかったとしたら、もったいないことなのではないでしょうか。
それは生徒さんにとって、よい「進路選択」となるのでしょうか。
「道は自分で切り開いていくもの」とも言いますが、それはあくまである程度誰かの後ろ姿や支えがあって切り開いていけるものである(そうでない人もいるかもしれませんが稀な成功者像を描くばかりではいけないかと)と考えられますし、人はそんなに強いものではない、あるいは、弱ることもある生き物だと思います。
弱さを抱えている存在であることを前提にした「自立」を目指すことが大切であり、強さや精神論でなんとかなることを前提とする「自立」では、取りこぼされる人を自己責任として見なす社会を醸成するだけのようにも思います。
誰もそんな社会にはしたくないのではないでしょうか。
このように、「人の力を借りずに存在できるようになる」という定義通りの「自立」というのは実はほぼ無理なことであり、それにもかかわらず、生徒に「自立」を促すということは、ある程度成功して安定した大人の上から目線、やや乱暴な丸投げに近い考え方ではないかと私は考えるのです。
自立することと頼ることの関係
では、何が「自立」なのかということですが、このことについて竹信三恵子氏が著書である『10代から考える生き方選び』において、興味深い言及をされているので以下に引用します。
自分だけでは実現のための人手や知恵が足りない(略)そのとき、人に「助けて」が言える、それこそが自立です。
竹信氏のこの言葉の背景には、人は弱い存在であり、すぐ次の瞬間には誰かに頼らないと生きていけない状態にいとも簡単に陥りうること、そして、ひとりで生きていくには限界があることといった前提があるのではないかと私は考えています。
これは実際の授業では話しませんでしたが、宇野重規氏の『民主主義のつくり方』ではこのような記述があります。
『ケアの倫理学』を引用しての文章ですが、
そうだとすれば(生まれた瞬間から自立した人間はいないこと・人はいつか確実に老いることから人の頼りにならないでいることは事実上不可能であるとすれば)、人が「自分は他者に依存していない」と思える期間は、人生のうちの一定の期間に過ぎない。さらにいえば、そのような期間においてすら、人間はつねに他者からの支援を必要としている。
ここでは「人間は他者に依存せずには生きていけない」(引用)存在であることも付け加えられており、つねに誰かの支援=誰かに「助けて」と言ったり、誰かに頼ったりすることを必要としているというのです。
私たちはこのことについて、つまり、人間のもつ繊細さについてもっと注目する必要があると私は思っています。
では、この誰かに「助けて」と言うこと、つまり(大きく括らせてもらって)「人に頼ること」について私たちがどう思っているかを見ていくと、結論から言えば、「人に頼ること」=「よくないこと」ではないかと思います。
私たちは幼いころから「人に迷惑をかけてはいけない」とか、「何かしてもらったらきちんとお礼をしなさい」とか、そういう言葉をたくさんかけられて育ってきたと思います。
その言葉がけを否定する意味ではありませんが、人に頼るということは人に迷惑をかけることであり、返礼をしないといけない(このこともいつか別で書くかと思います)と負担を背負うことです。
したがって、人に頼ることを「よくない」ことと思う、そういう負のイメージを抱いていてもおかしくないと思います。
それがゆえに、人に頼るということは「ラクをしている」と周囲から思われる可能性もあり、「よくないこと」とされる・自身も認識していると言えないでしょうか。
ここで、「人に頼ること」について、おもしろい一文と出会ったため引用します。
人に何かをやってもらうのは、はたから見れば楽をしているように見えるかもしれませんが、とんでもないことです。
ものを頼むというのは、生きていく中でもっとも神経をすり減らす作業のひとつです。
これは『風は生きよという』という映画に出演されている海老原宏美氏の言葉であり、私は映画は観ていないのですが、渡辺一史『なぜ人と人は支え合うのか 「障害」から考える』の著書にこの記述がありました。
海老原氏は車いすを使いながらの生活をしてきており、現在は人工呼吸器を使用しながら生活をされているということです。
失礼な表現になってしまうかもしれませんが、おそらく、海老原氏はいわゆる健常者と比べて、人に頼らないと生きていけない人だと思われます。
私はじん帯や腰を負傷したことがあり、松葉づえなどの生活を体験したことがありますが、その時は誰かの助けがないと生きていけませんでした。
社会は健常者使用になっているため、あくまで想像ですが、車いすや人工呼吸器が必要な生活というのは誰かの助けが必要であると考えられ、その意味で、海老原氏は見方によっては人に頼るプロであり、頼ることに慣れていると言えそうです。
しかし、そんな海老原氏が人に頼ることは「もっとも神経をすり減らす作業のひとつ」だと言われています。
その理由は様々考えられると思いますが、大事なことはこれだけ「人に頼る」ことを余儀なくされる生活をしている人ですら、「人に頼る」ということは「大変なこと」であり、「楽をしていること」という認識はおろか、「神経をすり減らす」ほどのことという点です。
「自立」は「誰かに助けてと言えること」ではないかと竹信氏の言葉を引用しましたが、もしそうであるならが、自立するためには他者が必要です。
もっと言えば、「他者(誰か)に頼ること」ができるようになる必要があります。
しかもそれはかなり高度な技術で体力がいること(神経をすり減らす)のようです。
…そうだとするならば、「自立」にはもはや「訓練」が必要ではないでしょうか。
「自立」するために必要なことは、精神論で「ひとりきりで」がんばらせることではなくて(ひとりで努力するということももちろん大切ですが)、「助けて」と誰かに言えるよう、誰かに頼ることができるよう「訓練」することなのではないかと私には思えてならないのです。
誰かに相談をすること
誰かに「助けて」と言うことや誰かに頼ることについて考えたときに、私たちがおそらく頭に思い浮かべるのは「相談」ではないかと思います。
私は生徒さんたちに「相談って恥ずかしい?」と尋ねてみました。
時間がなかったため、ゆっくり聞くことはできなかったのですが、私は「相談は恥ずかしい」ことだと思っています。
さらにいえば、「相談ってしづらい」ことだと思っています。
・・・誤解のないように言うと、「恥ずかしい」というのは「恥」の意味ではなくて、「周りが恥ずかしくない」と言ってくれても「恥ずかしいと本人が感じてしまうもの」だという意味です。
私は相談って(ほんの一部ですが)こんな思いを抱かせるものかと思っていると当日スライドを作ったのですが、それがこちらです。
「専門家」などがよく「相談は恥ずかしいことじゃないので相談してください」と簡単に言いますが、「恥」じゃないということは間違いありませんが、相談するということは仕組み?構造上?どうしても「恥ずかしい」と感じるものなのです(と私は思っています)。
そしてまた、これもスライドにありますが、相談することはしづらい・難しいことなのです。
『こころの科学189 中高生からのライフ&セックスサバイバルガイド』にて上岡陽江氏は、相談することについて著書の中でこのように言っています。
大人でも、何人と何度でも相談する必要がある場合もある。そんなに何度も相談しているのにうまく相談にのってもらうのは難しい。相談に失敗するのは当たり前のこと。20年かかって、ようやく構えない相談をするようになれた(一部大塚改正)
上手に相談できるようになるのに20年かかるという人もいて、大人ですら相談は難しいものだということがよくわかる一文ではないでしょうか。
だからこそ、相談は「訓練するもの」くらいの認識を持ち、子どものころから「スキル」として訓練する機会を持った方がよいのではないかと思うため、生徒さんたちには「もしかしたら、相談する力はスキルとして、今から訓練しておいてもいいのかも」とお伝えしました。
相談を訓練するものと捉えられれば、相談をすることが当たり前のことと映りやすくなり(避難訓練のようなものとなる)、たとえば(次回に詳しく触れますが)、相談をしにくい男性などにとっては、相談が取り組む口実となり(嫌な言い方ですが笑)相談のハードルが下がっていくのではないかと思います。
「自立」を本当に促す・目指すのであれば、自立の定義を見直し、そのために他者にどのように助けを求められるといいか、みなで話し合い訓練し合うこと。
そんなクラス・学校・地域・社会になれば、少し肩の力を抜いて生きていけそうに私は思います。
まとめ
中学生への研修内容、③については以上となります。
「人に頼らず、自立をしよう」というのは、生徒たちの成長を促しそうですし、思春期で自立か依存かを行き来する子どもたちにとって、ある種きっぱりと大人へなるようにとする「生徒思い」の言葉のように見えます。
しかし、子どもたちは力を持っている存在でありながらも、選択肢や情報、社会の仕組みという面においてはもっと知らされる必要がある存在であり、かつ、揺れ動いている時期だからこそ、人間の弱さを見つめ、自分や他人の弱さを大切にすることができるように取り組まれる必要があると思います。
誰かに助けを求めること、誰かに頼るということは一生必要なことです。
私たちはいつ病気になるか、いつ失業するか、いつ事故や災害に遭うかわかりません。
あまりに不安定な中で生きています。
そもそも人はひとりでは生きていくことができません。
「訓練をしなさい」とまでは言えませんが、誰かに助けを求めたり頼ったりすることが当たり前となる学校・社会にしていくことは、聴き手のスキルを高めよう(相談する・されるが当たり前になれば自然と高めあう動きが生まれるという意味)とするよりも、誰かを支え、結果「自立」を促すことになると思います。
「ひとりでできるようになること」も大切ですが、「誰かに頼ること」「誰かの力を借りること」「誰かに相談すること」、人の弱さを胸に「自立」を考えることも結構大切なことではないでしょうか。
私はそうした「自立」を成し遂げた人たちで構成される社会を目指したいと思っています。