kotaro-tsukaのブログ

社会の構造によってつくられる誰かのいたみ・生きづらさなどに怒りを抱き、はじめました。「一人ひとりの一見平凡に見える人にも、それぞれ耳を傾け、また心を轟かすような歴史があるのである」(宮本常一)をモットーに、ひとりひとりの声をきちんと聴き、行動できる人になりたいです。このブログでは主に社会問題などについて考えることを書いていく予定です。

おかえりモネが描いた丁寧な「距離感」を想う

連続テレビ小説『おかえりモネ』が終わって、一週間以上が過ぎました。

「モネロス」なる言葉が聞かれるように、多くの人が終わりを惜しむ、素晴らしい作品であったように思います。



もれなく私もモネロス真っただ中にいるのですが、一方で「全120話で終わってよかった」という心地よい感覚を抱いている自分もいれば、

「参りました…」と脱帽をしている自分がいることもまた事実です。

それがまた「ロス」を生んでいたりもするわけですが…とにもかくにも、素晴らしい作品に出会えたと心から感じており、感謝の気持ちでいっぱいです。

ありがとう、『おかえりモネ』。



さて、この作品には人を惹きつける構成・描写が数多くあったかと思いますが、私は『おかえりモネ』が描く丁寧な「距離感」に深い感銘を受けたため(それがまた120話で終わってよかった感と脱帽をするに至っている)、ここではそのことについて書きたいと思います。

なお、登場人物について書くときに、正式名称と呼称とが混ざってしまっていますが、親しみを込めて私の書きたいかたちとさせていただいておりますことをご了承ください。

 

f:id:kotaro-tsuka:20211112151834j:image

 

 

災害が生む多くの「距離」

 

ご存じの通り『おかえりモネ』の舞台である気仙沼市は、10年前の東日本大震災で被災を経験した地域です。

モネの出身地とされる「亀島」なる気仙沼大島は、本土との交通手段がフェリーしかなかったため、震災当時は孤立を余儀なくされました。

島にいる人びとだけでなんとか対応するしかなく、島に燃え移る火種を消し続け、また、プールの水をろ過して飲むという苛酷な暮らしを強いられていたと言います。



こうした条件もあり、目の前で故郷が燃え、大変な状況にあるにも関わらず、本土から島に戻ることができなかった人が数多くいたことは、作品で描かれていた通りです。

そこには目の前にあるにもかかわらず、大きな「距離」がありました。



そもそも災害は人びとに多くの「距離」を生み出します。

家が被災した人とそうでない人。

家族を失くした人と家族を失くしていない人などなど…災害は一瞬にしてたくさんの「距離」を生じさせます。

津波に関して言えば、波の高さや浸水区域によって道路一本の差で命運が分かれるため、矛盾した言い方になりますが、波の線でハッキリと線が引かれると同時に、目には見えない「距離」がそこに引かれることになります。



精神科医で医療人類学者である宮地尚子先生は、このことを環状島モデルとしてわかりやすく表しています。

 

詳しくは書籍を参照していただければと思いますが、そのモデルを引用すれば、モネは爆心地の中にいたはずの人でした。

ところが、その日たまたま爆心地の外にいたため、爆心地の中にいたはずの自分―爆心地の中にアイデンティから何からすべてがある―が、爆心地で起こったこと・起こっていることがわからないという状況に立たされてしまいました。

爆心地には今にも命が途絶えてしまいそうな人たちや苦しみに喘ぐ人たち―名前と顔がハッキリわかる人たち―がいるのに、爆心地に手を差し伸べに行くことすらできないという…そんな圧倒的な境界線を前にただただ立ち尽くすしかありませんでした。



モネが亀島に戻れた時には、爆心地で起こったことは(苛酷な生活は続いていくのですが)少し落ち着きを取り戻し始めており、そこには被災を経験した人と経験していない人との間に圧倒的な線が引かれていました。

そのことは、妹であるみーちゃんの

おねえちゃん、津波見てないもんね

という言葉によって突きつけられてしまいます。



こうした、自分たちの力ではどうすることもできない、災害によって生じる「距離」に登場人物たちは翻弄され続けながら生きていきます。

正確には、各々に「経験してしまった」ことを背負いながら、それによって生じている目に見えない、でも眼前にある「距離」と共に生きていくしかないのです。

それを表したのが三生の

ふつうに笑おうよ

という言葉と言えるでしょう。



災害が生みだす圧倒的な「距離」をどのように縮めるか、どのようにその「距離」と付き合えばいいかということは、耕治が言うように「そんな簡単なもの」ではありません。

【その「距離」は一足飛びに越えられるものでも、越えればいいというものでもない】のです。

放送当初『おかえりモネ』は「展開が遅い」などという批判を受けたようですが、そのように言われても【そうしたこと】がある現場を大事にする作品として描かれていたのだと思います。



物理的な「距離」

『おかえりモネ』は気仙沼市から少し離れたところに位置する登米市から始まりました。

亀島の中にいることがつらくなってしまったモネは、祖父の昔からの知人であるサヤカさんの家でお世話になり、その場所が登米市であり、登米市森林組合で働き始めていました。



登米市宮城県であり宮城県という意味では東日本大震災で被災した県です。

しかし、登米市は内陸にあり、津波被害は受けていません。

島にいることは苦しくなってしまったモネ。

でも島のためにできることはしたいと(おそらく「あの日」から)思っていたモネ。

環状島の例で言えば、爆心地の中に居続けることはできないけれど、環状島が見えなくなるような「距離」にいたいとは、モネは思わなかったのだと思います。

登米市は沿岸部に限りなく近い内陸に位置しており、そうしたモネの心境に沿った、遠からず近からずな絶妙の「距離」であったように思われます。



後にわかるわけですが、モネはサヤカさんや森林組合の人たちが彼女にとっての支えとなったと言います。

それは登米市の人たちの温かさや自然環境が大きな要因であることは間違いありませんが、登米市の立地がモネの気持ちに沿う「距離」だった、ということもまた大きな要因だったと考えられるでしょう。

その絶妙な距離を描いている作品だったと思います。



そして、モネは登米での生活で気象に出会い、東京に行きました。

東京は東日本大震災地震被害や帰宅難民等の被害に遭い、また原発事故による計画停電があったことなどから、環状島の近くに位置していたと思われますが、数か月・数年後にはもう環状島が見えないところかのような位置づけとなっていたと思います。

モネが東京に行ったのは震災から数年後であったため、いわゆる風化が進み、何もなかったかのような生活が繰り広げられていたことでしょう。



案の定、モネは職場で一緒に働いていた神野さんに

誰かの役に立ちたいって結局、自分のためなんじゃん?

と言われ、モネの抱えてきた気持ちが(意図的ではなく)握りつぶされてしまいます。

 

これは正論でありつつも、モネの言う「誰かの役に立つ」と、神野さんの描く「誰かの役に立つ」との間に大きな解離・温度差があったとも言えるでしょう。

モネの”それ”は「目の前で手を伸ばして救いを求めている大切な人たちの役に立つ」類のものであり、神野さんの”それ“はそうした死活問題・切迫性のあるものではない「役に立つ」がイメージされていたのではないだろうかと思います。

登米市ではそうした言葉が掛けられなかったのは気仙沼市という「被災地」との「距離」に近さがあるためであり、気仙沼登米―東京という「距離感」によるズレが丁寧に描いていたように思います。



気仙沼編になって、東京からボランティアに来ていた学生が登場しますが、彼女もその「距離感」をうまくつかむことができず、自分のできると思っていたことと、地域が抱え求めているものとがマッチしなかったひとつなのだと言えるでしょう。

それぞれにある物理的な「距離」、それによって生じる様々なズレや温度差を巧みに描いていたように思います。

 

 

関係性という「距離」

『おかえりモネ』には様々な人物が登場しますが、人間関係の「距離感」もまた見事に描かれていたように思います。



最も象徴的なのは、新次さんとりょーちん、そして、モネとみーちゃんの「距離感」ではないでしょうか。



『おかえりモネ』では、新次さんにとってはパートナー、りょーちんにとっては母が震災により行方不明となられたことが描かれていました。

行方不明は、あいまいな喪失などと言われますが(ここで専門的な言葉を使うのは気が引けますが)「もしかしたら明日には帰ってくるかもしれない」、「死と認めてしまってはいけないのではないか」といった気持ちが生じやすく、区切りをつけることが難しい喪失と言います。

これは言い換えれば、「距離」の取り方が大変難しい状態と言えるでしょう。

そのあいまいな状態でいることが本人にとっては(難しいし苦しいのだけど)大切なことであり、自分が幸せになったらその「距離」を定めてしまうことになりかねません(本人がそう思ってしまうという意味で)。

りょーちんの

おれ、幸せになってもいいのかな

という言葉は、その渦中にいること、い続けてきたことが表された言葉であったように思います。



また、震災・津波による別れは避難するまでに時間があったなどの条件から、「自分が○○していたら助けられたかもしれない」という自責の念が生じやすいものです。

その点でも、新次さんやりょーちんの喪失の深さや複雑さはかなりのものだと思われます。

特に新次さんは漁師を生業としており、海の怖さや海の仕組みをよく知っていたでしょうから、より重くのしかかっていたことでしょう。。



一方で、モネのおばあちゃんはドラマでは回想シーンで出てくるのみで、亡くなっている設定でした。

しかし、おばあちゃんはカキになって生きているなど、いつも側にいるという「距離感」で描かれていました。

それは亡くなった証が確実にあり、また、震災による突然の別れではなく、寿命を全うしたということでもあるでしょう。

もちろん、そのような条件であれば喪失が深くならない、あいまいな喪失について書いたような気持ちにならない、という意味では決してありません。

ただ、おばあちゃんの描かれ方は、新次さんとりょーちんのそれとはまた異なる(優劣ではありません)「距離」があることを象徴的に描いていたのではないかと思います。



そしてその二人は父親と息子という関係であり、ただでさえ、思春期以降「距離感」が難しい関係です。

そうした二人がお互いに思い合いつつ、心配し合いつつ…すれ違う思いもありながら、尊敬し合いつつ…そのなんとも歯がゆい「距離」が、震災によってより難しくなったりかえって近づき過ぎてしまったり、、そうしたことも描かれていたのではないかと思います。



モネとみーちゃんも姉と妹という関係であり、親しい関係でありながらも震災の爆心地真っただ中にいたみーちゃんと、その外にいたモネという難しい「距離」が生じてしまいました。

友達との間でもその「距離」を感じると「ふつう」のやり取りが難しくなる中で、目の前にいつもいる大切な人との間に「距離」が設けられてしまった。

それはいつも言えていたことが「言えないこと」に変わったり、いつも言えていたことしか言えなくなってしまったりといったことが起こりうるでしょう。

それでも時間の経過とともにお互いに大人になり、自分自身のことやあの日何が起こったかということなどが理解できてきて、依存し合うことと紙一重な支え合う親しい姉妹の関係に戻っていく(バージョンアップする)。

それは姉妹だからできることでもあったのではないでしょうか。

そうした繊細な「距離」も作品を通じて描かれていたのではないかと思います。



 

自然との「距離」

『おかえりモネ』では、自然の循環も大きなテーマとして描かれていました。

雨が山に降り注ぎ、その養分が海に流れていくことでカキが育つ。

そうした自然の循環を知る中で、気象に出会って成長をしていくモネの姿に心を打たれたという人も多かったように思います。



気仙沼市をはじめ、東日本大震災で被災をした地域の多くは、もともと海とともに生きてきた地域でした。

それはつまり津波も繰り返し経験してきた地域であるということです。



東京で気象情報についてモネが扱う場面で、災害のリスクばかりを主張してしまうことがありました。

災害はいつ起こるかわからず、人間の都合に合わせてはくれません。

明日は海水浴で楽しむ予定だから晴れてもらうことも、津波は起こらないようにお願いすることも当然できません。

それでも私たちは時に積極的に自然の中に入り、癒されたり生きる糧をいただいたりしながら自然の中で生きている存在です。

感染症や気候危機が叫ばれる中で、私たちは自然とどのような「距離」で付き合っていけばいいのか。

「漁師の意地」を含め、そうしたこともこの作品では提示されていたのではないかと思います。



何も関係ねぇように見えるもんが、何かの役に立つっていうことは、世の中にいっぺぇあるんだよ

 

というモネの祖父の言葉がこの作品では何度も出てきますが、自然の循環の中で生きる私たちはあまりにちっぽけな存在ではあるけれど、

ひとりひとりが生きることで何かの役に立つことがあり、それがめぐりめぐって自分に返ってくるという循環も描かれていたように思います。

朝岡さんが最後にモネに伝える

信じて続けることですね

という言葉も、その循環を信じるということのように思います。

壮大な「距離」を越えて人々や自然がつながっているということもまたこの作品で描かれていたのではないかと思います。



心に受けたいたみとの「距離」

『おかえりモネ』では、多くの人の「いたみ」が丁寧に描かれていたように思います。

東京のシェアハウスに住んでいた宇田川さんは、震災ではない理由でいたみを負い、最後まで人前に姿を現しませんでした。



新次さんもりょーちんも、深いいたみを負いながらそれぞれに

おれは立ち直らねぇよ

おれ、もう全部やめてもいいかな

という思いを吐露する場面がありました。

 

神野さんはいたみを何も持っていない(と思っている)人として、それでも抱えているものがあると描かれていました。



この作品では「いたみ」を負った人が治療やカウンセリングに通い、その中の様子を描くということはありませんでした。

新次さんが通院している様子、それをモネの母が付き添うという場面はありましたが、詳細な内容は描かれていません。

「乗り越えました」とか、「復興しました」とか、そういった言葉もなかったように思います。



私たちはよく心にいたみを負ったり、災害などに遭ったあとに「乗り越える」という言葉を使いがちです。

しかし、心のいたみー消せるものは消すことができたらいいのでしょうし、日常生活に大きな支障を来しているなら解消することができればいいことでしょうーを乗り越えるなどということは、先にも述べたように「そんな簡単なもの」ではありません。



みーちゃんのように、自分の背負ったいたみを誰かに見せたら、傷口が開いてしまうかもしれない、あるいは、自分が許されることになってしまうかもしれない。

だから、自分のいたみを感じ続けられる(と思う)島からは出ないという「離れないでいる」という「距離」の取り方を選択し続けていました。

 

りょーちんも「話を聞くよ」と手を差し伸べるモネたちに対して、「大丈夫」と笑顔で返すことで、自分のいたみに触れそうになるものから「距離」を取ってきました。

 

後にりょーちんは

お前に何がわかると思ってきた

と言いますが、「距離」を取ることで、そもそもわかってもらえるはずもない心の傷を「わかってもらえるはずがないもの」と自ら位置づけてきたのでしょう。

それらは簡単に「乗り越える」ことができるものではありませんし、「乗り越える」という考え方自体がフィットしないものとすら言えそうです。



耕治は最後の最後までりょーちんの船出の現場に行きませんでした。

ハッピーエンドとすることのできるこの場面に立ち会わなかったのは、立ち会ったら

おれが救われてしまうんじゃないか

そんな簡単じゃねぇだろ

と感じるためであり、それはそれぞれに抱えたいたみが、何かによって簡単に終わったものとされる・終わったとできるものではないということを描いていたと言えるでしょう。



私たちはいたみを解消し遠ざけようとする(ことを否定するわけではありません)ことが多いですが、いたみを共に抱き続けるという考え方もあります。

なぜなら、いたみが生じるのはそれが大切なものだったからかもしれないためです。



みーちゃんはおばあちゃんを助けたいと思ったけど、置いて逃げた。

おばあちゃんが、目の前にいる人の命が大切だから、いたみを負った。

りょーちんも同様に、お母さんは心から大切な人であるから、そのいたみは深いものとなって残り続けた。

「残り続けた」というよりかは「残し続けている」と言った方が相応しいのかもしれません。

そうだとするならば、いたみは解消するものとして見るだけではなく、抱き続けるものとして見ることもまた大切となります。

それは重たくしんどくなる時がある生き方であるため、その重さを共に分かつよき他者の手を借りたり、時にその重荷を降ろす自分を許したりできることが大切なのではないでしょうか。

 

モネが最後にサックスを通じて、あの日の自分との「距離」を取り戻す時、そこには重さを分かつ仲間がいました。

あの日近くにいなかった自分が抱えている、みんなとは違う重荷を降ろしたときにみんなから「おかえり」と言ってもらえ、自分が許された、ひいては重荷を降ろす自分を許すことができました。

 

戻ってたまるか

というモネの言葉は、心のいたみとの「距離」をモネがつかむことができていることを描いていたように思います。

心のいたみとの「距離」は遠くすればいいのではなく、共に生きる「距離感」を探し続けること、それを共にしてくれるよき「距離感」の他者がいることが大切なのかもしれません。

心のいたみと書きましたが、いたみには「痛み」「悼み」「傷み」があり、いわゆるトラウマとグリーフは別で扱う必要があります。ここではごちゃ混ぜに書いてしまっていることをお許しください。詳細を分けて書くことはここでは少し専門的なような気がして相応しくないと感じたため書きませんでした。



ほどよい「距離」とはなんだろうかー私自身の経験から―

ここまで『おかえりモネ』が描いていた様々な「距離」について綴ってきました。

もちろん内容が不十分でもっと深く語るべきこともあるし、違う角度から語る必要があることもあると自覚しています。

想起される場面が他にも複数あることや、「距離」と関係なく綴るべきことも多くあり、少し無理をして括ってしまった感があることもまた否めません。その点、私の力不足を感じています。

※未定ですが、この記事の内容をはじめ、ここでは書ききれないことー私が実際に見聞きし教わってきた体験談などを交えてーについてオンラインでゼミのようなものを開けたらなどと思っています。

 

しかし、なぜこのような「距離」に関する記事を書きたいと思ったかを最後に書くと、これは私自身がいわゆる「被災地」との「距離」を常に考え続けてきたためと言えます。



私は東日本大震災を埼玉で経験し、揺れは経験したものの、海なし県であるがゆえに津波被害は経験していません。

その後、埼玉から東北に2年間足しげく通わせていただきましたが、そもそも論として「何もできない中でできることをしよう」と思い、「わかりえない」という事実を大切にしながら現地に訪れていました。



「通う」生活を重ねるうちに自分の中で「距離」が縮まってきたことを感じつつ、立ちはだかる「わかりえない」現実を前に、いわゆる「被災地」を「生活」の場とすることで「距離」を0にしてみる道を選びました。

しかし、それでも(当然のことと思っていますが)そこには圧倒的に「わかりえない」ことがあり、むしろそれは日に日に感じさせられるものでした。



私は震災前から大切な人を失くした人たちや「いたみ」を抱える人たちとお会いする機会をいただいてきて、「わかりえない」ということを自覚する大切さを痛感してきました。



震災があり、「被災地」に移り住み、多くの人から地域について、地域で起こったこと―それらは震災と関係ないものを含む―などを教わる日々を過ごす中で、

「わかりえない」という自覚、自分と相手との間には「距離」があるということを自覚して、「わかることができれば」と佇むことがやはり大切なのではないかと、その思いを深めてきました。

奇しくも、『おかえりモネ』で出てきた私と同じ名前の菅波先生がそのように言われていましたね。

『おかえりモネ』の放送以前からこのことを口にしていたことをご理解いただければ幸いです。「おれたちの菅波」の方々、どうか怒らないでください。



「被災地」で、関東から訪れる大学生たちを「待つ」立場も経験してきた私は「距離」を縮めようとする人たちの持つ「いたみ」も強く感じてきました。

かつての私を重ねつつ、重ねられないそれぞれの「いたみ」を多く教わってきました。



本来、人のいたみは比べられません。

でも災害はそこに「距離」を生み出します。

物理的な「距離」が人を救うこともあれば、温度差に傷つけられることもあります。

それでも様々な関係性の中で生きるのが私たちであり、その「距離感」の複雑さと妙を経験しつつ、大きな自然の循環の中で無言の恩恵を受けたり圧倒されたりしながら生きていく。

それぞれに抱えるいたみは違うけれど、いたみもまたその人の生きた証であり、「わかることはできないけれど、わかろうとする」こと、ひとりひとりが求めるほどよい「距離感」を大切に想い、大切にされることで、人はまた生きていけるのかもしれません。



東日本大震災が発生した2011年から10年と8か月が過ぎました。

風化という言葉を使いましたが、時間は「距離感」を変えていきます。

私たちはその「距離」を自覚する暇・余裕もなく、日々を過ごしています。



作品では私たちに「距離」を突き付けた新型コロナウイルスの影響も匂わせながら、最後はモネと菅波先生が

私たち、距離も時間も関係ないですから

と抱き合い、手を繋ぎました。

『おかえりモネ』の脚本を担当した安達先生が、東日本大震災からここまでについて、自身と当事者との間に「距離」があることを自覚して、それを丁寧に扱ってくれたことそれ自体がまず多くの人の心を癒してくれたように思います。

 

「距離」を縮めることはできなくても、線をなぞり、「あなたが悪いのではなくて、そこに線があるんだよ」と丁寧に示してくれた。

それは圧倒的な「距離」の前に無力を感じていた人たちの生きてきた力を肯定することであり、私たちが線の存在を知ったうえで丁寧に生きていくことによって、いつかの誰かの何かの役に立つかもしれないということを示唆してくれたのではないか。

そんな風に思うのは私だけでしょうか。

 

当事者ではない人間の方がより深く考えられる

菅波先生のこの言葉。

このことにどれほどの可能性が秘められているものなのか。

このことはどれほどの希望となりうるのか。

モネロスという現象がその答えを表していると思います。

 

「距離」があるということは、わかることはできないということ。

それでも、わかろうとすることは、目の前にある「距離」を認め、大切にするということなのかもしれません。

そんな丁寧な歩み寄りが、「距離」をとらないとわからないことまでを内包し、私たちに癒しを与えてくれたのではないでしょうか。

モネロスとともに、いつかの誰かの何かの役に立つことができるよう、私は私の人生を生きていきたいと思うのでした。