kotaro-tsukaのブログ

社会の構造によってつくられる誰かのいたみ・生きづらさなどに怒りを抱き、はじめました。「一人ひとりの一見平凡に見える人にも、それぞれ耳を傾け、また心を轟かすような歴史があるのである」(宮本常一)をモットーに、ひとりひとりの声をきちんと聴き、行動できる人になりたいです。このブログでは主に社会問題などについて考えることを書いていく予定です。

「若者の投票率の低さ」その理由を聞いてみました

衆議院選挙が終わって二週間ほどが過ぎました。

もうすっかり(少なくともメディアで扱われない)忘れ去られているようになっていますが、

比例代表での略称が国民民主党立憲民主党も「民主党」と記載することになっていたり、投票所が予告なく早く閉められたり、在外投票が間に合わなかったり…と様々な疑惑・問題のある選挙であったように思います。



これらがきちんと検証され改善されようとしないことは大変危険なことであると考えますが、変化の激しい現代において(ましては「水に流す」文化の国…)同じ問題を扱い続けることは「批判ばかりしている」と捉えられたり、「もう飽きた」と言われてしまったりしやすいのかもしれません。

これは問題を起こした側が軽視され、問題を「問題だ」と主張して闘う人たちが嘲笑されるといった構図となりやすく、、非常に怖いものでもあるように私は感じています。



さて、こうした時代を生きる若者たち―次から次へと情報の取捨選択して生きるのが当たり前になって生きている世代―にとっては、選挙というものがそもそもどのように映っているのでしょうか。



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Photo by <a href="https://unsplash.com/@ajaegers?utm_source=unsplash&utm_medium=referral&utm_content=creditCopyText">Arnaud Jaegers</a> on <a href="https://unsplash.com/?utm_source=unsplash&utm_medium=referral&utm_content=creditCopyText">Unsplash</a>

 

周知の通り、今回の衆議院選挙は戦後三番目に低い投票率でした。

以前、「選挙格差」なるものを考えてまとめてみましたが、若者の投票率の低さはそうしたこと以外にも何があるのだろうかと選挙後考えてきて、このようなツイートをしてみました。

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もちろん反応はほとんどありませんでしたが、大変ありがたいことに、このことについて答えてくれた方がいたため(本当に感謝です)、ここではその応答をひとつの事例とさせていただいて、私たち大人が何をするべきなのかについて考えたいと思います。

なお、この記事は19日(金)に作成しましたが、週末に「政治をもっと身近に!」という若者のトークイベントがあるようで、そちらを聴講する予定でしたので、聴講後に少し手を加えるか、大幅に付け足すかなどするかもしれませんので悪しからず。



 

 

選ばれた人・偉い人は正しいことをするという思い込み



さて、まず私のつぶやきに反応してくれた方についてほんの少し書かせていただくと、その方はかつて投票には行っていなかったようで、コロナ禍を経て政治に注目するようになったということでした。



その方がなぜ投票に行かなかったかと言うと、そのひとつに「思い込み」があったと言います。

その方の言葉を引用させていただきます(許可をいただいています&少し私が手を加えて読みやすくしています)。



政党や政治家は国民の投票で選ばれてるから、

選ばれていた政党や政治家は立候補した中では国民にとっていい人たちなのだろう。

 



続けて、



現在政権を担っている自民党は他の政党よりもマシなんだろう。

他の政党はもっとよくないから選ばれないんだろうと、人任せな考えを持って、勝手に思い込んでいた。

 

と教えてくださいました。



これをお聞きした時「それはそうだよなぁ」と深くうなづいてしまいました。

私たち(少なくとも日本)は縦社会の中で生きており、親(は少し子育てや発達として違う捉え方となりますが)をはじめ、教師や先輩など上の立場の人たちの言うことを聞き、また、教科書の内容を覚えることで評価されるシステムのもとで育っていきます。



時代はだいぶ変わってきましたが、自分よりも「どうやら偉い人」の言うことに従って生きていくことが正解であり、その「どうやら偉い人」の象徴にも見える政治家(選ばれているので)は「なんだかよくわからないけど立派な人・すごい人」であり、「間違わない人」と思い込んでしまっていても仕方ないように思います。



私自身子どもだったころ、大人はミスをしない存在だと思っていました。

大人というのは強いから泣かないし、何がすごいかはよくわからないけど、とにかくすごい人たちだと思い込んでいました。

だから、親が泣いている場面を見た時の衝撃は大きく、今でも記憶に残っていたりしますし、自分が大人になってそれは思い込みに過ぎないとわかったりします…。



話を戻しますと、子どものころからずっと、上から教わるスタイルの教育を受け続け、学校を出てもなお縦社会の中で育つ私たちにとって選挙もしくは政治というものは、到底「きちんと疑う対象」とはなり得ないことなのではないかと言えそうです。

またこれは、「正しい答えのみを追及する教育」によって強化されていくものではないかと想像がされます。



私たちは教科書(ないし歴史)の内容を絶対正しいと思いがちですが、そもそも教科書は人の手で作られたものであり、現時点で正しいとされるものでまとめられていて、改訂がされていくものです。

むしろ、教科書のような書物は強者によって書かれ残されやすい傾向があり(敗者は意思決定の場にいないので)、強者にとって都合の悪いことは書かれていない可能性すらあったりします。

それにもかかわらず、私たちはそういったことを疑う・批判的に考えるということと無縁の中で育ちます。

少なくとも、その方が上にいる人たちからかわいがられたりもします。



もしこうした教育システムや縦社会の在り方が、若者の政治(家)に対する思い込み≒「疑わない」ということにつながっているのだとしたら、こうした教育システムや縦社会の在り方を抜本的に変える必要があると思います。

せめて、〈先生(大人)にも間違えることがあるということ、大人にも(誰もが)弱さがありミスをすることがあるということ、大人が子どもの参加する権利を守り対等に話や意見を聞くということなどを、家庭や学校、地域・社会で子どもたちと共有し、積極的に実践していく〉ことができれば、少しは変わってくるでしょうか。



抜本的に変えられない、ないし〈〉が容易にできないという場合、その背景にあるのは、社会に出て成功しないといけない(特に男性)という競争社会における個人主義化やジェンダーの問題と、子どもの人権を軽視していることがあると私は考えます。



間違いを認めるということは、社会に出て成功しないといけない、そうしないと男らしくないとされる社会で生きる限り、困難でしょう。

また、大人にも弱さがあることを子どもたちに伝えるには、男性も悲しいときには「悲しい」と言い、涙を流す姿を見せることが必要です。

「男は泣かない」という有害な男らしさがあるとしたら、それは遠い話となり、到底導入できないでしょう。



子どもの参加する権利は子どもの人権です。

子どもが意見することを「生意気な」とか、取るに足らないことともし捉えるのであれば、それは人権侵害であり、そうした環境では子どもたちが(疑うことは覚えるかもですが)声をあげても無駄だと学習してしまう可能性があります。

ですが、大人はパワー構造上、どのように抗っても子どもたちよりも上の立場であるため、「生意気な」と思っていた方がラクなのかもしれません。

もちろん、子どもは大人に守られる存在であり、守られる権利が子どもにはあるわけですが、そのことに胡坐をかいて全人的な視点での人権を軽視するのであれば、抜本的な改善など到底無理な話かと思います。



これらはあくまで私の推論に過ぎませんが、衆議院選挙後にどなたかが言った

 

ジェンダー問題は暇な人の趣味

 

というのは的外れにもほどがあると改めて思わされます。



ここまでを簡単にまとめると、「思い込み」ということが政治を遠くするとするならば、必要なのは教育システム、縦・競争社会、そしてジェンダー問題や人権に関する取り組みを進めていくことであるように考えます。



選挙・政治への苦手意識

 

もうひとつ、選挙に行かなかった理由として教えていただいたことがあったので引用させていただきます。



政治や選挙の仕組みが分からず、忙しいと言い訳にして知ろうとすることもしなかった。

そもそもずっと苦手意識があった。

 

また、



選挙にいいイメージがなかった。

路上での演説や選挙カーは迷惑なこともあるのではないかと考えていた。

(やっと小さな子どもを寝かしつけた親や保育士、夜勤を終えて寝ている人、聴覚過敏の人、体調の悪い人など)

 

 

さらに、



政治家にいいイメージがなかった。

政治家といえば、失言、不正、おじさんばかりで難しいことを言っているという偏ったイメージだった。

 

これらもまた私も全く同じ意見であり、若い人にこんな風に思わせていること自体に問題があるなと改めて思わされています。



私の場合、社会・公民系が大の苦手だったため、政治や選挙の仕組みなど、社会人になるまで全くわかりませんでした。

大学院修了をしているということで、高いとはいえないにせよ、ある程度の学力はあった方と自覚せねばならないわけですが(少なくとも学ぶ環境は用意されていた)、それでも全くダメであり「理系(今は文系なのですが)に進むから社会なんかわからなくてもいいや」と完全に捨てていました。

今思うと、これでも進学ができ社会人になれるということに違和感を覚えますが、政治や選挙の仕組みがわからない以上、投票など正しくできるわけないですし、関心も持ちませんよね。

そういうタイプの人にとって、選挙や政治は苦手意識だけが残っていくでしょう。



最近ではマッチングアプリのような感じで自身の考えに近い政党を選べたりするようなものもありますが、それはそれで大変素晴らしいものと思いつつ、結局は政治に無関心のまま過ぎ去るのかなと感じたりもしています。



選挙へのイメージ、政治家へのイメージも全く同感で、申し訳ありませんが、私は選挙カーを騒音と感じたり、「みなさんのために汗水垂らしてがんばります」と走り回る人や「地元を愛しています」アピールをする人を冷めた目で見てしまったりしています(今も)。



選挙期間になって選挙カーで選挙活動がはじまるわけですが、これまで関わりのなかった人が突然大きな声で何か難しそうなことを言っていても、よっぽど関心を持って選挙・政治を考える人以外、そうした声に耳を傾けることはほとんどないのではないでしょうか。

それを無駄と言うつもりはありませんが、また、選挙には様々なルールがあり、公正さが保たれる必要があるため慎重さが必要ですが、もっと日常から政党同士の討論や活動内容が展開されたり、選挙カー以外で政治家の声を聞ける場・機会が頻繁にあってもいいように思います。

そうでないと選挙カーでの声は騒音に過ぎず、残念ながら選挙への苦手意識が強化されることすらあるかもしれません。

 

「みなさんのために汗水垂らす」と言う意味はわからなくもないですが、政治家の仕事は実際に汗を流せばいいのではなくて、国民の考えを反映したり、生きづらくされている人たちが健康に生きていけるようにしたりすることなはずです。

選挙戦の時にわざわざ走って汗を流す姿を見せる必要はなくて、その期間にいかに「がんばれそうな人か」をアピールする選挙戦の在り方には大変疑問ですし、そんな体育会系の人だらけが仮にそれで当選したとしてもどうかと私は思います。

 

「地元を愛しています」という発言も同じです。

いくら愛していても、困窮している人たちにすぐ支援策が出せないで「愛しています」と言われても意味がありません。

地元を愛していなくても、今生きづらくされている人たちの話を真摯に聞き、どうしたら改善できるのかを示すことの方が、よっぽど政治家の仕事をしていると私は思います。政治は結果だからです。

 

こうしたことで選挙ないし政治家のイメージが向上するという人もいるのかもしれませんが、少なくとも私はもう少し選挙のイメージをクールなものにできないものかと思ってしまいます。

 

 

また、ここでもまたジェンダー問題、ジェンダーギャップ指数の話となるわけですが、日本の政治家のイメージはスーツを着た高齢男性の世界ですよね。

そして、そうした高齢男性たちが国会で寝ていたり、ヤジを飛ばしたりしているところを私たちは多く目の当たりにする(そういう人が多い)ので、政治・政治家のイメージが悪くなっても仕方ないように思います。

仕事中寝ることもヤジを飛ばすことも、子どもたちからすると学校ではしてはいけない行為ですよね。

ヤジの大切さというのも大人になってある程度わかるようになりましたが、本当にただのヤジとなっていることもあり、そういうばかりを見ると疲れてしまうのが正直なところではないでしょうか。

 

寝ている人を退席させたり減給など罰則を与えたり、適正な批判や抵抗ではない限り(その見極めをどうするのかという問題はありますが)ヤジはしないとしたりすることはできてもいいのではないかなと思ったりもします。

同時に、子どもたちにはヤジは不正をきちんと追及するものとか、不正から逃がさないためにされているものであることを教え、それはヤジではなく「批判」であって「批判」そのものは必要な行為であることを知ってもらう必要があると思います。

 

不正・不平等に対しては「仕方ないよね」で終えないことがとても大切なことであり、それを追及して改善する、よりよくしていく手段に「批判」があることを理解してもらう。

そういった手段(のひとつ)を使って、声を上げることによって、きちんと不正を公正にしていくことができるということを、子どもたちをはじめ、私たちはもっと体験的に学ぶ必要があるのではないかと思います。

そして一刻も早く、魅力的で多様な政治家が揃い、選ばれることで、若者の政治への苦手意識は薄まっていくのではないかと考えます。

 

 

一票の大切さ?を考える

 

若者の投票率の低さに、思い込みと苦手意識というものがありそうと書いてきましたが、ひとつ考えさせられる回答があったので、こちらも引用させていただきます。



政治に関わることや投票をすることが大切と言われても、何で大切なのかがちゃんと分かっていなかった。

 

 

あなたの一票が大切と言われるけれど、政治や選挙の仕組みが分かってない自分が投票して、もしもまずい人に入れてしまっては大変。

だから、政治や選挙のことをよくわかってる人が投票をした方がいいと思っていた。

 

(自戒も込めて…)多くの大人はよく「あなたの一票が大切」とか「清き一票を」などと言い(私もこの記事もその傾向があることを自覚していますが)若者に「あなたの一票は大切な一票なんだよ」と問いかけ、プレッシャーを与えて(善意ですが)選挙に行ってもらおうとしがちです。



しかし、投票に行かない・行けない若者の中には、「大切」だと言われるからこそ、生半可な気持ちでは関われないということもありそうだと今回私は気づくことができました。

これはマイノリティの意見かもしれませんし、一票が大切なのは事実であり、権利であると知ってもらわねばならないとは思います。

それでも、そもそも政治に対する親和性のようなものがなく、ほとんど知らない世界のことであり、かつ、投票が大きな力を持つものであるからこそ、投票そのものに気が引けてしまうということも確かにあるのかもしれません。



このことを思ったときに私の頭に浮かんだのは、普段力を持たせていないのに突然力を持たせられる若者、というようなイメージでした。

普段正解以外の意見を述べさせることはあまりしないし、批判もさせないのに、突然「選挙に行け」と言われても「うっせぇわ」なのかもしれないなと思います(少し古いのかも苦笑)。

それで大人が引いてしまっては元も子もないのですが、これまで繰り返し書いてきたように、教育や子どもたちの自治の経験というものがいかに大切であるかをもっと私たちは自覚しなければならないと感じています。

「あなたの一票が大切」であるのであれば、もっとそれを体験する機会・訓練が必要ではないでしょうか。

 

 

外圧の力と、それでも平時から…

冒頭で書きましたが、今回回答をくださった方は、コロナ禍を経て投票しなければと思ったと言います。



コロナ禍になり政府の動きを見るようになった

 

ようで、今のままではまずいのではないかと思ったと言います。



外圧によって変わることというのはたくさんあり、あまりにショッキングな外圧ではありますが、コロナ禍で唯一よかったと思えるのはこうした問題意識を若者が持てるきっかけになったということかと思います。



しかし、それでも投票率が低いということをどう考えていけばいいか。

そうした問いから先述のツイートとこの記事が生まれているわけであり、偉い人の言うことは絶対といった思い込み、選挙や政治家への苦手意識、普段訓練がされていないのに一票が大切とされるプレッシャーなどが見えてきましたが、もうひとつヒントになりそうなことを教えていただいたので引用させていただくと



国民のことを考えて動いている政党や政治家もいると知り、そういう人を応援したいと思うようになった。

 

ということがありそうです。

 

教育や縦社会、親和性や自治の体験などが必要であることは間違いないと感じていますが、今すぐにできてシンプルなことは結局これに尽きるのかもしれません。



公約は調べてみたらわかったけど、これまでの実績が分からないから知ることができたらいいのに。

どのような活動をしているのか日頃からもっと伝わったらいいのに。

 

 

という言葉もいただきました。

 

私は(一応)地域福祉を実践から学んできた立場ですが、福祉に関する研修会で

日常に福祉はあるが福祉は日常から遠い

 

といった言葉を聞いたことが今思い出されています。



いつも地域福祉は政治の問題と私は感じているのですが、「福祉が日常から遠い」ように、政治も日常から遠くなってしまっているというのが若者に限らず多くの人の実感ではないかと思います。

選挙戦の時にあれだけ「○○します!」などと話されていたはずなのに、その後どうなっているかがわからない、むしろ何もよくならない現実ばかりが見させられているように思います。

選ばれた偉い人たちでもうまくいかない、解決しないのであれば、誰を選んでも変わらないと思わせてしまう、そういったこともあるのかもしれません。



政治家が普段何をしているか国民に伝えていく。

 

このシンプルなことこそが大事ではないかと感じますし、さらに言えば、政治家のみならず私たち大人が政治が普段何をしているかー与党として選ばれなかった人たちのことも―をもっと伝えていく必要があるのかと思います。

 

その役割を担うはずのメディアは、連日私人を追跡したり、扇動かのような偏向報道があったりしていて、本当に危機に陥っているように思います。。

しかし、それらを是正し抵抗しながらも、今は誰もがメディアになることができる時代でもあるために、できることは多くなっているはずです。

 

偉い人もミスをしたりその権力を悪用することすらあると知ってもらうこと。

苦手なものであるには違いないけど、そのイメージやシステムを変えていくためにできることが実は私たちにもあること。

選挙の仕組みや政治家が何をしているか、どの政党が何を言っているのかを知る機会が普段からあり、一票を恐れずに、大切に(過度なプレッシャーを感じずに)行使していいこと。

教育システムや縦社会の構造にメスを入れつつ、そしてまた若者をリスペクトし自治の経験を積み重ねてもらいつつ、政治家はもとより私たち大人がしっかり政治が何をしているかを伝えていくこと。

こうしたことが若者の投票率について考えるうえで大切なことなのかもしれません。

私にできることをしていきたいと思います。

投票する際に名前をチェックする形式にするとか、できるのかどうか不明ですがオンライン投票を進めるとか、ボルダールールの導入とか、選挙活動の見直しとか…あらゆるハード面の改善・改訂が考えられるわけですが、そこに今回は(私の知識不足等も多くあり)触れられなかったことはどうかお許しください。今後考えていきたいです。