kotaro-tsukaのブログ

社会の構造によってつくられる誰かのいたみ・生きづらさなどに怒りを抱き、はじめました。「一人ひとりの一見平凡に見える人にも、それぞれ耳を傾け、また心を轟かすような歴史があるのである」(宮本常一)をモットーに、ひとりひとりの声をきちんと聴き、行動できる人になりたいです。このブログでは主に社会問題などについて考えることを書いていく予定です。

「若者の投票率の低さ」を反省的に考える①問題点と仕組みの話(素人の仮説)

前回、

kotaro-tsuka.hatenablog.com

について考える記事を書きました。

 

その記事の最後に、日本財団の調査

日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」(9カ国調査) | 日本財団

(第202019年)によると「自分で国や社会を変えられると思う」人は5人に1人であり、数字の低さが際立つ結果となっていることが指摘されている、ということを書きました。

ここでは、「声を上げること」の延長線上として、なぜこのような状況になっているのかを通じて、「若者の投票率の低さ」について改めて“反省的に”考えてみたいと思います。

 

f:id:kotaro-tsuka:20211224113437j:plain

Photo by <a href="https://unsplash.com/@neonbrand?utm_source=unsplash&utm_medium=referral&utm_content=creditCopyText">NeONBRAND</a> on <a href="https://unsplash.com/?utm_source=unsplash&utm_medium=referral&utm_content=creditCopyText">Unsplash</a>

 

 

 

 

調査結果が示していること(素人の私の仮説)

 

上記の日本財団の調査以外にも、内閣府の「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」(H25年度のもののため少し古いかもしれませんが&参考にしたのはこちらのリンクです)によると、「私の参加により、変えてほしい社会現象が少し変えられるかもしれない」という項目に「そう思う」と答えた日本の若者の割合は30.2%であり、調査対象国の中で最も低い割合になっているとされています。



日本財団の調査結果も、内閣府の調査結果も両方とも(結果が重なるのは当然と言えば当然ではありますが)「声を上げた」としても「社会は変わらないだろう」と多くの若者が思っていることを示しているわけですが、このことはもしかしたら、

「声を上げる」経験の不足、あるいは、「声を上げた」けど「社会は変わらなかった」という経験の積み重ねによる無力感

というものが背景にあるかもしれないということと、また

そもそも「社会を変える」ということについて、若者が消極的、あるいはネガティブなイメージを抱いている

といったことがあるのかもしれない、と私は考えています。



内閣府の同調査では、若者が「自分の将来について明るい希望をもっている」かどうかについても、諸外国よりも低い割合であることが指摘されています。

これは①の無力感を想起させますし、一方で、同調査における「自国のために役立つと思うようなことがしたい」という項目においては諸外国よりも高かったという指摘があり、これは「社会の役に立つ」ことと「社会を変える」こととがリンクしていない(解離している)という②の可能性を示唆しているのではないだろうかと私は思います。



この二点はあくまで素人の私の仮説に過ぎないのですが、この二点を中心に「若者の投票率の低さ」について考えたことをここでは書いていきたいと思います。



自らが選び変える経験の機会不足



まず、①「声を上げる」経験の不足、あるいは、「声を上げた」けど「社会は変わらなかった」という経験の積み重ねによる無力感、について考えてみたいと思います。



若者が社会に出る経験を考えると、最初に思い浮かぶのは学校という空間であるように思います(保育園や幼稚園もありますが、より長く大人と関わり時間を過ごす場所としては学校のためここでは学校が相応しいかと思いました)。なお、「若者」と書いたり「子どもたち」と書いたりすることがありますが、基本的には「子どもたち」というのは広く「子どもの頃」(特に若者の子どもの頃)という意味合いで使っていることをご理解いただければと思います。



以前も何かの記事で書いたかもしれませんが、学校には決められた授業があり、日本では特に子どもたちがそれを「みんなで一緒に」学んで過ごします。「みんなで一緒に」学び、「みんなと一緒に」できることがよしとされる、そんな風潮が強いように思いますが、いかがでしょうか。



この話をすると「学校とは何か」という話となってきてしまうかと思いますが、それはここでの主題ではないので触れません。

ここで注目したいことは「みんなで一緒に」学ぶことをよしとする風潮は、大切な部分があることを少なからず認めつつも、それが強すぎた場合に、個人の声・力が削がれる可能性があるのではないだろうか、という点です。



「強すぎる」ということをどのように定義付ければよいかは難しい部分がありますので、比較対象として他国(デンマーク)の教育について少し見てみたいと思います。



先月行われた『政治をもっと身近に!~U30の声を聞いて一緒に考えよう(以下、U30の声)』というイベントの中で、参加者が「デンマークの若者の投票率が高い」ことについて言及していることがありました。

なぜデンマークの若者の投票率が高いかというと、そのひとつには

 

声を上げて動けば政治を変えられると思える

 

ことがあると言われ、さらに

 

民主主義の担い手を育てる仕組みや制度が学校などにあり、思いもある

 

と言われていました。



また、以前『Global視点での幸福、教育のベースにあるモノ【大人のデンマーク留学見聞録】~びっくり!しかなかった大人のデンマーク滞在日記(以下、Global視点)』を聴講しましたが、そこではデンマークと日本の中等教育の違いなどについて様々な話がされていました。

すべてご紹介したいくらいですが、学校・教育の現場の違いとして特に私の印象に残った話は、学校が「自由である」ということと「机の配置はコの字型が多い」という話でした。

「自由」というのは(その方のお話によると)制服や校則が特にないということで、髪型やピアスなどの禁止もなければ、足を机に投げ出して授業を受けていても特に罰則があるわけではないということです…これは日本では考えられないですよね…。



「机の配置」についてですが、コの字型というのは「お互いの顔を見合え、対話、参画がしやすい」構造であると言われ、「教師にとっても動き回り、個々の状況を把握しやすい」というメリットがあるということです。



デンマークのすべての学校がこうしたシステムとなっているわけではないのかもしれませんし、デンマークは意外と自殺率が高いこともその講義で言われており、こうしたシステムが「万能」とはもちろん言えませんが、デンマークの「若者が声を上げれば政治を変えられる」と思っていることと、こうした教育のシステムとがリンクしていることは間違いないように思います。



デンマークの事例のみではありますが、これをもとに改めて日本の学校・教育を見ると「みんなで一緒に」(をよしとする風潮)が「強い」ことは否めませんし、少なくとも、日本の学校ではコの字型に机が配置されているというところはほとんどありませんよね。

コの字型が促すと言われる対話よりも、みんな同じ机を使って前を向き、先生の話を聞く。そして、残念なことに、時にブラック校則とも言われるものすらある校則に従って過ごす。そうしたこに適応できることこそがよしとされているのが日本の教育現場ではないだろうかと思います。



このことは私たち(より上から)世代のことかと思っていたのですが、TwitterのあるZ世代のつぶやきに驚かされたことがありました。

引用させていただくと…

言うことを聞くこと、先生から学ぶこと、お利口であること、従うことが正解だと教えられてきた期間が長すぎて、恥ずかしながら未だに私たちが生きる社会が不完全であることを理解しきれていない。

Z世代と言われる若い世代でも、私たちと大した違いのない教育を受けているということに衝撃を受けましたし、これだけ時代が変化しているにもかかわらず、なぜそこが大して変わらずにいるのだろうかとその根深さに少し怖さを覚えます。

これでは、自分が「声を上げる」主体であることにすら気づけない可能性があるように思いますし、「声を上げた」ところで大人に取り合ってもらえない(変えられない)ということが多くあるのではないかと思われます。

自らが選び、変える経験の機会は乏しく、声を上げる経験(機会)が不足しているのが日本の教育の現状と言っても誤りではないように思います。



刷り込まれ続けるバイアス

また、「声を上げること」の記事でも引用した、盛岡大学公開講座での遠藤可奈子教授のお話の中に、国語教育の教科書におけるジェンダーバランスについてのお話があったため、引用していきたいと思います。



遠藤教授によると、H15H27年までの高校国語教科書の小説掲載上位5位までの作家は全員男性作家であるということでした。

小説の主人公も男性で、女性は悪いやつや無力なキャラとして出てくる作品の掲載が多いことを指摘しています。

遠藤教授は

高校生は生き方を学ぶ時なのに(略)これ(上記)を女子高生は違和感なく学んでいる

と言います。



中学の国語教科書については今年の春に改訂がされたそうですが、それでも作者はほとんど男性で、主人公もほとんど男性のものが使用されており、高校国語教科書と同様の傾向があると指摘されています。

改訂したのになぜ大して変わらないのかというと

これ(変わらない理由)は文化(財)の担い手が男性中心だったからであり、女性が出てくるまでに時間がかかっているからだろう(優秀な女性の作家はいるのに…)。

と言われ、

しかし、保守的なこうしたことから脱却する必要はあるのではないか

とも言及していました。



大人が変わることや変えられない理由・バイアスについて考える記事はまた別で書きたいと思っていますが、私は遠藤教授がこの話をしてくれなかったら、この偏りに気づかずにいたと思います。。

私たちが学校で学んできた「ふつう」は、そうした偏った教材による「ふつう」である可能性があり、それは大変怖いことであると感じています。



遠藤教授は日本の教育における問題として、「隠れたカリキュラム」についても話されていました。

「隠れたカリキュラム」とは、日常的な言動や男女の色分けなど、日常の中で平然と性別による役割分担などが刷り込まれることを言います。



私が某レンタルショップで「声を上げた」ように、ジェンダーバイアスは日常にあふれているわけですが、それは学校や教育の世界でも(無意識のうちに)溢れてしまっているということであり、そうした「隠れたカリキュラム」によって子どもたちは大きな影響を受けているだろうと言われます。



「みんなで一緒に」をよしとする風潮が強い中で、ジェンダーをはじめとした、多くの偏りを子どもたちが刷り込まれ続けていくことは、「おかしい」と思う力や機会を奪い、たとえ「おかしい」と思っても「言えない(言ったところでどうせ変わらない)」という思い・無力感を積み重ねさせていくのではないでしょうか。



アクティブラーニングなど、最近は学校でも自ら考えて動く時間をなるべく設けているようですが、それを無駄とは思いませんが、決められた数時間を主体的に過ごすことができたとしても、それ以外の時間・空間が周りに同調させられる力や偏った刷り込みで覆われているのであれば、子どもたちが受ける影響がどちらが強いかは言うまでもないだろうと思います。



初めての社会生活である学校の場が、自ら選び変える経験の機会が不足する場であり、強い同調と刷り込み(特に無力な女性像など)で溢れた世界であれば、子どもたちに「変えられないものがある」と思わせるには十分すぎるだろうと思います。

そもそも「声を上げる」機会が(気づけないことを含め)少ない中で、「声を上げた」けど「社会は変わらなかった」、あるいは「声を上げてもどうせ変わらない」といった無力感が、無意識のうちに子どもたちに積み重ね続けられているのかもしれません。



「人様に迷惑をかけてはいけない」教育と批判・対立への抵抗感

続いて、②そもそも「社会を変える」ということについて、若者が消極的、あるいはネガティブなイメージを抱いている、という可能性を考えてみたいと思います。



これについては「声を上げること」の記事で書いた私のホテルでの「声を上げた」経験から思うことがあるため、そのことから書きたいと思います。

先の記事では書きませんでしたが、私がホテルの部屋を変えてもらえるよう「声をあげよう」としたとき、一緒に泊まっていた私の相方からは実は「言わなくてもいいんじゃないか」と言われ、実質止められました。

その理由には「我慢できる範囲だし(できると言えばできるくらいの感じでした)他の部屋もそうなのかもしれない」というものがあったようですが、「言ったところで変えてもらえないだろう」という理由があったこともわかりました。

というのも、移った部屋で下水の臭いがしなかったときに「どうせどの部屋も臭いがすると思ったけど、全然違うね。言えば変えてもらえることもあるんだね」と相方が言ってくれたためです。



この時に私が思ったのは、あえて強く言わせてもらえば(ホテル関係者の方、申し訳ございません)たかがホテルの部屋を変えてもらうだけのことですら、私たちは「声を上げること」を躊躇し抵抗感を抱くということがあるのだなということです。

私もですが、相方は「人様に迷惑をかけてはいけない」ということを学んで育ってきたということをよく話します。

確かに「声を上げる」ということは誰かに「迷惑をかけてしまう」ということがあり得る行為です。

そもそも「声を上げること」は「批判」や「対立」というものを生む可能性があることであり、「みんなで一緒に」の空間においては「よくないこと」と言えるでしょう。

「みんなで一緒に」の教育を受けてきた私たちは、「声を上げること」、すなわち「批判」や「対立」というのは誰かに「迷惑」をかける行為だと認識しており、それが、たかがホテルの部屋を変えてもらうというだけのことであっても抵抗感を抱かせるのではないかと思います。



先ほど引用した、あるZ世代の方のTwitterでのつぶやきには実は続きがありました。

それは

いつになったら自信もって政府批判が出来るようになるんだ……

というものです。



確かに

先生から学ぶことやお利口であること、従うことが正解だと教わってきたことで、社会が不完全であることを理解することが難しい

のであれば、自信をもって政府批判などできるわけないですよね。。



仮に「社会の役に立ちたい」と思っていても、それが「社会を変える」とか「声を上げる」とかいうこととつながらないのも、やむを得ないように思います。

日本の教育の問題がこれほどまでに根深いとは…と、自分で書いておきながら痛感させられています。。



大人の問題としての反省…今すぐにできること・すべきこと@仕組み編

以上、2つの仮説について書いてきたわけですが、これが正しいかどうかまではわかりませんが、大きくずれていることはないように思います。

そう思うと、「若者の投票率の低さ」は愚か、日本財団内閣府の調査結果に起因している、なんならその結果を促しているのは、教育をする側である我々大人ですよね。。

ひとりの大人として、深く反省するのと同時に、申し訳ない気持ちになっています。。



しかし、ただ反省したり申し訳ないと思っていたりしても仕方ないですし、若者にとって、あるいは社会にとって何にもならないので、どうしていったらいいかについてここから考えていきたいと思います。

言うまでもなく、教育現場や広い意味での教育を変えていくことは当然必要なことでしょう。

そのことについても考えたいと思いますが、それはあまりに根深くエネルギーも時間もかかるため、その前にまず取り急ぎ「若者の投票率の低さ」を緊急課題として大人がすべきことについて考えたいと思います。



「若者が声を上げやすい」仕組み・若者が「声が反映されている」と感じられる仕組みを急ピッチで導入すること

生活の動線上、かつ、メリットとなる投票(所)のシステムを

唐突ですが、私は車が必要な地域で暮らしていることから、普段、車を使用することがよくあります(ここ数年は極力歩くようにしていますが)。

車検の関係から思い切って車を買い替えたのですが、その車には寒さ対策としてハンドルを温める機能があることを知りました。

最近だいぶ寒くなってきたため、その機能を先日初めて使ってみたところ、ハンドルの一部しか温まらないことがわかりました。

その一部はどこかというと、いわゆる「1010分」にあたる部分です。

私は結果、安全運転の基本である「1010分」でハンドルを握って運転をしています。



突然なんのこっちゃなお話をしてしまいましたが、私は普段の運転の時に必ずしも「1010分」のハンドルポジションをしない人です(そういう人の方が多いのではないかと)。

ですが(そのハンドルポジションが本当に安全運転になるのかどうかまでは正直わかりませんが)安全運転のために推奨されているハンドルの握り方を私が結果しているのは、「私の思い」とか「それが正しいことだから!」みたいな理由ではなく仕組みとして「マッチング」しているためと言えます。

「寒さ」と「温める機能」との「マッチング」が、否が応でも私に「1010分」のハンドルポジションを取らせているということです。

これは、若者が投票に行くためにも大事な発想ではないだろうかと私は思います。

つまり、「強制」の意味ではなく(投票を強制している国もあるようですが)、若者の「日常生活の動線上」に「投票の機会」をきちんと整備することで「マッチング」が増えるのではないだろうか、と思うのです。



たとえばですが、現在の投票所は市役所や公民館などとなっていますが(閉まる時間が突然変わるなどの不可思議なこともありましたが…)、これを若者が通う大学の中にも設置していいのではないかと思いますし、若者がよく利用するレストランやカフェ、図書館といった場所に設置してもいいのではないだろうかと私は思います(あくまで素人考えですが)。



また、いわゆる高学歴ではないとか、安定した雇用に就くことができていない若者(たち)が投票につながりにくいだろうということが今回(私の中で)考えられたのですが、たとえば(実現できるか、またそれが相応しいかとかが私の頭ではまだわかりかねますが…)投票に行ったことが選考の際に評価される項目となったり、給料の上昇あるいは休暇取得数の増加などの何かしらの「メリット」となるようにされていたら、そうした方々の投票率も違ってくるのではないかと思います。



その方法については様々リスクもあるだろうと思うので、吟味しないといけませんが、いずれにしても、投票に行くことが若者にとって生活の一部と化し、さらには「メリット」となるような仕組み(ハンドルを握れば温かいみたいな)が考えられ、実行に移されることが大事ではないだろうかと思います。

できることはいくらでもあるはずなので、そうしたことを急ピッチで進める・試すことが大人に求められているのではないでしょうか。



投票の物理的なハードルを下げる

先の衆議院選挙で問題となったことに、在外投票が間に合わないということがありました。

これをもし与党が計算していたのだとすれば非常に悪質であり、民主主義の崩壊と言わざるを得ませんが…こういったことは今後もあり得るため、「在外ネット投票の早期先行導入を求めます!」というキャンペーンが行われたりしていますね。

ネット投票は選挙における「秘密投票」をどのように守るかが難しいということが言われていますが、郵送が間に合わないという理由で投票できないというのはおかしいことであり、せめて期間を変更するとか、在外「オンライン」投票なるものなどもできるようになってもいいのではないだろうかと思います。



それには専用アプリの開発が必要になるかもしれませんが、オンラインで選挙管理委員会とのやり取りを経て、オンライン上で投票ができるなどということも、これからの時代にはできてもいいのではないかと思います(私は機械に弱いので私が言うセリフではないですが、そうした技術を持っている人たちはすでにいそうな気がしているので言いたいことを言っています…)。



大学に投票所が設置されるということもそうですが、オンラインでの投票の仕組みが進めば、通学等のために住民票のない(移していない)地域に住んでいる学生たちも、わざわざ帰省して投票をしたり、あまりに非効率な方法での取り寄せを行ったりもしないで済み、結果、投票率が上がるのではないかと考えます。

これは『U30の声』でも話題に上がっており、私自身もそれに似た経験があったため(最高にめんどくさかった思い出があります)、その手間がなくなればだいぶ違うだろうということを感じています。



世代別投票の検討

これまでは「若者が声を上げやすい」仕組み=投票のしやすさを物理的な視点から言及しました。

ここからは若者が「声が反映される」と実感できる仕組み=「声が反映される」と実感できれば投票率も変わってくるといった精神的?な視点における投票のしやすさについて考えたいと思います。



誰もがご存じのように、日本は高齢化社会です。

もう2021年も終わろうとしていますが、総務省によると、今年の総人口に占める高齢者の割合は29.1%と発表がされました。

20年後の2040年には35.3%が高齢者となると予想がされており、若者の声はそもそも届きにくいのに、それは今後も深刻になる一方であると言えそうです。

「若者の投票率が低い」ことでもうすでにシルバー民主主義と言われたりしているわけですが、このままでは若者のための政策はより軽視され、それはつまり「若者の声は反映されにくい」と感じる社会となり、それがまた「社会を変えることなどできない」という無力感となり…といった悪循環が生まれてしまうことを私は懸念しています。



ただ、これほど高齢化が進むと、シルバー民主主義になるのはある程度はやむを得ないことだろうと思うので、それを前提とした上で違うシステムを導入し、それが「若者の声が反映される」システムであるとなるのがよいのではないだろうかと私は考えます。

そのひとつとして世代別投票の導入があるのではないでしょうか。



これは政治学者の宇野重喜氏が、高校生に向けて講義をした際の記録を冊子とした著書『未来をはじめる「人と一緒にいること」の政治学』で触れられていたのですが、たとえば「二十代選挙区」なるものが作られれば、二十代の人たちの当事者性も増すでしょうし、著書を引用させてもらえば

(投票)数は少なくても二十代の代表者が必ず議会に送り込まれる

ということになります。

 

 

それは政治と自分とが近い距離にあるといった基本的なことを感じさせるでしょうし、自分たちの社会は自分たちで作っている・作っていくという民主主義の醸成につながるでしょう。

投票しなかった場合の結果についても、責任を感じやすいのではないかと思います。

そうなると、これまで切り離されていた「声を上げる」ことと「社会の役に立つ」こととにつながりが見えるかもしれませんし、「若者の声が反映される」ことを若者たちが実感できるようになれば、より多くの若者が投票に行きたくなるのではないだろうかと考えます。

そういった意味において、世代別選挙区制の導入は崩壊しつつある民主主義の再建になりうるひとつの有効な手段として考えられるのではないのかなと思います(繰り返しますがあくまで素人考えです)。



ボルダルールの導入の検討

もうひとつ、若者が「声が反映される」と実感しやすくなる投票の仕組みにボルダルールという方法があるように思います。



これも『未来をはじめる「人と一緒にいること」の政治学』で紹介されており、元は坂井豊貴氏による『多数決を疑う』にあるのですが、著書の坂井氏は

多数決は、みんなの意見を集約するための一つのルールに過ぎない。しかもあまり出来がよくない

と指摘し、ボルダルールについて紹介をしています。

 

 

ボルダルールとは何かというと、候補者に一位~三位までランキングをつけてそれぞれ三点―二点―一点と点数をつける方法のことを言います。

以下の「たとえ」は著書の内容を私が若干書き換えたものとなります。

 

たとえば、三人(X,Y,Z)の候補者がいたとして、二十一人が投票するとします。候補者にそれぞれランキングをつけてもらったところ、以下のような結果になりました。

 

一位:X、二位:Y、三位:Z →四人

一位:X、二位:Z、三位:Y →四人

一位:Y、二位:Z、三位:X →七人

一位:Z、二位:Y、三位:X →六人



この場合、現在採用されている「多数決」だと、一位の票が多いXが当選することになりますよね。

しかし、ランキングをよく見ると、Xだけは嫌だ(=Xを三位にしている人)という人が十三人もいることになります。

Xがいいと思っている人は八人です。それにも関わらず、Xが当選となるわけです。



これをボルダ・ルールで考えるとX37点、Y45点、Z44点となります。

つまりXではなくYが当選することになり、多数決の時と結果が異なるのです。

ちなみに、Yを一位にしているのは七人で、Yだけは嫌だ(=Yを三位にしている人)という人は四人となっています。



この結果をみなさんはどのように考えるでしょうか。

数が増えた場合には見え方が異なる可能性もありますが、私はXよりもYが選ばれる在り方の方が「声が反映された」と感じられる人が多いのではないかと思います。

また、その方が「公正」な世の中になるのではないだろうかと考えます。



宇野氏は

多数決ルールは、二者択一ではそれなりの合理性がありますが、選択肢が三つ以上の場合、高い確率で変な結論が導き出されてしまうのです。強い人同士が潰し合って、弱い人が勝ってしまうことが多々あるのが多数決のルールの性質なのです。

と言います。



ボルダルールも完璧な方法ではないということは宇野氏も坂井氏も指摘しており、私も何もボルダルールが絶対必要だ!などとは思っていません。

ですが、現在は多数決ルールがあまりに強調され過ぎており、その一方で本当に民意が反映されているのかというと、いかがなものかと思うことばかりです。

大切なことは、投票の方法に完璧がない以上、多数決ルールが絶対とされたままであってはいけないですし、「若者の声が反映される」かどうかは高齢化社会において多数決ではますます難しいだろうということをきちんと考えることです。



宇野氏はこのように言います。

多数決というのは、勇気のいる仕組みです。人数を正確に数えて、少しでも多い方を勝ちにするというのは、共同体や組織を二分してしこりを生む可能性があります。それでも多数決という仕組みが拡大したとすれば、その前提には、多数と少数の入れ替え可能性が必要でした。すなわち、今日は勝った人が、明日は負けるかもしれないという建前があってこそ、多数決は意味があります。

また、多数決を成り立たせるための前提には、少数派になったとしても最低限の人権は保障されていることが重要です。少数派になったら命が奪われる可能性があるのでは、多数決のたびに流血の騒ぎとなります。その上で(略)勝者は敗者に、敗者は勝者につねに変わりうるという前提があってようやく、多数決制は広く認められるようになったのです。それでも、いまの社会においてなお、これらの条件が整っているかは怪しいですね。

 

私たちはこの指摘を謙虚に受け止め、「(特に若者の)声が反映される」投票方法についてもっと考え、変えていく必要があるように思います。



「大人の問題としての反省…今すぐにできること・すべきこと@教育編」も作成したのですが、ここからまた6000文字くらいになってしまっていたので…一度ここで記事を区切ります。

お読みいただきありがとうございます。次の記事もよろしければ、お読みいただければ幸いです。