kotaro-tsukaのブログ

社会の構造によってつくられる誰かのいたみ・生きづらさなどに怒りを抱き、はじめました。「一人ひとりの一見平凡に見える人にも、それぞれ耳を傾け、また心を轟かすような歴史があるのである」(宮本常一)をモットーに、ひとりひとりの声をきちんと聴き、行動できる人になりたいです。このブログでは主に社会問題などについて考えることを書いていく予定です。

ばぁちゃんの人生を思う

2022年になってもう二週間が経ちますね。

遅れてしまいましたが、旧年中はありがとうございました。

本年もちょこちょこ更新していきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。



「若者の投票率の話」の記事からシリーズ的な形でこれまで記事を書いてきて、次は「変わらない大人たち」のことについて書く予定でいましたが、その前に、年末年始に二年ぶりに帰省し、私の大好きな祖母に会うことができまして、以前からずっと書きたいと思っていた私の祖母のことについて書かせていただこうと思います。

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祖母のことは「ばぁちゃん」と呼んでいたため、ここでは「ばぁちゃん」として書きます。

ばぁちゃんとの思い出・ばぁちゃんから直接聞いた話とばぁちゃんの家族から聞いた話を通じて、私の大好きな「ばぁちゃん」について記したいと思います。

小学生が書く夏休みの日記的な部分が多いですが()、どうかご容赦ください。

 

 

 

ばぁちゃんとの思い出

私のばぁちゃんは群馬県の山奥にひとりで住んでいました。

私が幼いときから、たとえば夏休みになれば家族で山奥のばぁちゃんの家を訪ね、23日から長くて一週間くらい、ばぁちゃんの家でばぁちゃんと一緒に過ごしました。

ばぁちゃんの家は山奥にあるので冬は雪が積もります。

車で行くため冬に訪れることは難しかったのですが、その代わり夏は涼しくて、川は目の前にあるし家の周りは木々で覆われているし、自然豊か過ぎてとても気持ちがいいところで、避暑地的な感じで毎年夏にばぁちゃんの家に行けることは私にとってはいつも楽しみでした。

まあ、ただ正直言うと、昔ながらの家だったのでお手洗いがいわゆるぼっとんでして、、それだけはちょっと嫌だったかな…とは思います。

あっ、あと、ばぁちゃんはいつもお小遣いをくれたので子どものころはそれも楽しみだったところも正直ありました(打算的でごめんなさい)。



ばぁちゃんの家に行くと、ばぁちゃんの畑のちょっとした手伝いをしたり、うどんを「ぶつ」(足で踏んでこねたり、うどんを曳く機械があってそれを手伝ったり)作業をしたり、「たばこ屋」と言ういわゆる駄菓子屋さん的なところにばぁちゃんと一緒に行ってお菓子やアイスを買ってもらったり、お墓参りを一緒にしたりして過ごします。

夏に訪れていたので、ばぁちゃんの家のテレビでよく甲子園を見ていたなと、そんな記憶もあります。

すいかわりや花火をしたり、きれいな星空を見たり、肝試しみたいなことをしたり、贅沢な夏休みを過ごせる時間がばぁちゃんの家での時間でした。



幼いときの記憶は正直あまりありませんが、ばぁちゃんがたくさん私をかわいがってくれたことは肌感覚であります。

それこそ記憶にはないですが、ある日訪れたら家がリフォームされていて、その理由が「光太郎が家が怖いって言うから」と言われたことがありました。

ばぁちゃんの家は昔ながらの家のため天井が炭で真っ黒だったのですが、どうやらそれを幼い私が怖がっていたようです。

今思えばもったいないし申し訳ないと思いますが、それを私のために直してくれたという話を聞いたときは驚きました。

他にも、猫アレルギーの私のために、ばぁちゃんが大好きな猫(ペット)は天井裏にいてもらったりしたこともよくあったなと思い出します。

それでも目が腫れて大変になったこともありましたが笑。



他にも、私が大人になって「お小遣いはもういいよ」と言っても巧妙にお小遣いを渡してくるばぁちゃんとのやり取りがいつも楽しかったことを覚えています。

ある日、ばぁちゃんが「そのじゅうたんめくってみろ」と言うからなんだろうと思ってめくると、お小遣いが隠されてあったのです。

それが毎回のように続いたため、私はばぁちゃんに会うや否や「ばぁちゃん、今日はどこにお小遣い隠したんかい?もうお小遣いはいいから、通帳とハンコをくれよ」と冗談を言って対抗したりしていました笑。



一年に一度訪れるくらいでしたが、改めて書き出してみると書ききれないくらい、ばぁちゃんとの思い出があります。

 

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りんご畑で転んだついでにりんごをかじってるばぁちゃん(本当はモザイクなしにしたかったけど本人に許可取っていないのでとりあえずぼかします)

 

強くてかわいいばぁちゃん

思い出からわかる通り、ばぁちゃんはものすごく「やさしい」人(情にもろい人)なのですが、私はどちらかというと、ばぁちゃんのことを「強くてかわいい」人として見ていました。



ばぁちゃんは私が知る限りでは70歳過ぎ?くらいになるまで大きい病気をしたことがなくて、ずっっっと、ひとりで畑作業ーしかも畑はだいぶ広いーを黙々とこなしていました。

野菜が採れればいつも送ってよこしてくれてもいました。



「百姓」であるばぁちゃんはまさに「百の仕事」をこなす人で、思い出の中で「畑のちょっとした手伝い」をしていたと書きましたが、ばぁちゃんは「畑作業を手伝ってくれ」と言いながらも、素人の私たちの仕事ぶりを「へたくそ」と言って「こうやるんだよ」と文句たれながらほとんど手伝わせず、自分でやってしまいます笑。

年齢を重ねて膝を悪くしたり手を悪くしたりしても、いつも畑に行っていて野菜のできを見たり畑をいじったりしていました。

外に出るのがしんどくなってさえて「畑を見たい」と言っていたばぁちゃんが印象的で、その時は「そんなにこだわってどうするんだよ」と思っていましたが、ばぁちゃんにとって畑は自分が生きてきた証であり、プロとして生涯関わっていたいところだったのかな…なんて今になって思います。



「へたくそ」と言われると書いたように、ばぁちゃんは口が悪い(強い)人でもありました笑。

いつもは穏やかでやさしすぎるくらいやさしいのですが、譲れないことに対しては強い口調で「口撃」してきます。

ばぁちゃんの地域の言葉なのか、ばぁちゃんのオリジナルな言葉なのかは不明なままですが、悪いことをした人や嫌なことをする人に対しては「やくざ野郎め」と言って怒鳴ったり、「ばか」と言ったりすることはしょっちゅうでした笑。

個人的に最高におもしろかったのが、ばぁちゃんの娘=私の母は半身が若干不自由なのですが、あるとき、足を痛めて杖を使うようになったばぁちゃんがこんなことを私に言ったのです。

「光太郎、足がヤクザになってな(足を悪くした、痛めたの意味)。動けなくなって初めてわかるぞ。身体動かせねぇのがどんなにつらいか。母ちゃん(私の母)の気持ちがいてぇくらいわかる。大事にしてやってな。」

情にもろいばぁちゃんは、涙をボロボロ流しながら私にこう話してくれたのですが、その直後、そんなことを言っておきながら母のことを「くそがき」と言って、杖でどんっと軽く殴ったのです笑。

何か気にくわないことをしたのでしょうけど、それはないだろと笑ってしまいました(笑いごとじゃないけど)。

このこと以来、私はばぁちゃんに会うたびに「ねぇ、ばぁちゃん、涙流して「身体動かなくてかわいそうだ」って言っておきながら、その人のことを杖でぶん殴る人がこの辺にいるみたいなんだけど知らないかい?」と尋ねるようになりました笑。

ばぁちゃんはそれに対して「知らねぇなぁ。そんなやつがいるんかや?」ととぼけて笑いながら返してきます笑

私はばぁちゃんとのこういうやり取りが楽しくて仕方ありませんでした。



ちなみに、これまで書いてきた通り、ばぁちゃんの家は山奥にあるので虫がたくさん出ます。

特にアブがよく出るのですがーそれも私はちょっと嫌でしたがーばぁちゃんはアブくらいだったら平気で手でつぶしていました笑。

あと、さすがに熊が出ることは(多少)警戒していましたが、猿が出ると追い払ったりしているということもよく聞いていました。

さらにちなみに、ばぁちゃんは「天下取り」とも言われるますかけ線の手相を持っている人です笑。

医者によく「これはすごい線ですね」と驚いて言われるというエピソードを聞くのも定番で、そんなこんなで「ばぁちゃん最強説」が私の中で創られていき、ばぁちゃんは私にとってはやさしいけど「強い」人だったのです。



ただ、ばぁちゃんは「強い」だけでなく私にとっては「かわいい」人でもありました。

ばぁちゃんは演歌歌手の島倉千代子さんによく似ていると言われてきたようで、たまにばぁちゃんのことを「千代子ちゃん」と私は呼んだりしていて、そうするとちょっと照れたように笑って「ばか」と返してくるばぁちゃんがかわいくて仕方ありませんでした笑。

また、ばぁちゃんはこれまた演歌歌手の氷川きよしさんのことが好きで、「きよしのズンドコ節」に合わせて「きよし!」と言っていたりして、アブを手で平気でつぶすばぁちゃんがそうやっている姿を見ることが最高に好きでした笑。



だからこそ、こんなにも強くてかわいいばぁちゃんが病気になり、弱ってきたときはなんとも言えない気持ちになりました。

ばぁちゃんは(確か)肺がんになり、それはなんとか(確か)完治しましたがそのまま立て続けに身体を壊し、思うように動かず痛みが伴う身体となって、いつもしんどそうでした。。

「死にたい」「早くむかえさきてくれねぇかと願ってる」といつも言っていて、どうにもしてあげられないことを悲しく思っていました。

今ばぁちゃんは認知症のようになったところも少しありますが、車いすで施設で生活をしています。

さすがに弱ってきているばぁちゃんですが、一年前だったか、心不全、敗血症、腎盂炎誤嚥性肺炎になってしまったそうで、医者から「覚悟するよう」にと言われたのですが、まさかの大快復をして医者も「奇跡だ」と言うといった体験をしています。

それを含めて、今回コロナ禍でばぁちゃんに会うことができ10分程度ですが一緒に過ごしてみて、やはりばぁちゃんは私の中で「強くてかわいい」ばぁちゃんのままでした。



ばぁちゃんの人生ー私の知りうる範囲のことー

ばぁちゃんのこの「強さ」と「かわいさ」はどこからくるのでしょうか。

私は大人になってから、ばぁちゃんがどうやって生きてきて、私の大好きなばぁちゃんになったのかを聴きたくなり、ばぁちゃん家に行くといつもばぁちゃんに話を聴かせてもらうようになりました。

話を聴きたいと思うようになったひとつのきっかけは、ばぁちゃんが施設に通うようになって施設で字を書く機会があったときに「字が書けねぇ」と、自分のことを恥ずかしがるという話があったことでした。

恥ずかしながら、こんなにも強くてかわいいばぁちゃんが「字を書けない」ということを私は全然知りませんでした。

そして、当時の私は「字を書けない」ということの意味をあまり理解できていませんでした。

ばぁちゃんはよく私のことを「頭がいい子」と言って、周りに自慢をしていたと言います。

大学院まで行った私はそのことを「迷惑」というか「やめてよ(事実と異なるという意味)」くらいにしか思っていませんでしたが、ばぁちゃんにとって孫が大学院まで行くということは純粋にうれしいこと(誇らしいこと)であったと同時に、「うらやましい」ことでもあったのかもしれないと今思って反省しています。

ここからは、ばぁちゃんの人生について―本人の言葉と周りから聞いたことを中心に―綴らせてもらいたいと思います。



ばぁちゃんは私がよく遊びに行っていた山奥の家からさらに山奥にある家で生まれました。

昭和6年の16日生まれ(先日92歳になりました)と聞いていますが、正確にはわからないそうです。

10人兄弟の中の5番目だか6番目だかということで、役所への届け出や手続きなどがその当時は正確ではなく、とりあえずその日に生まれたことになっていると言います。



その当時は食料増産で畑仕事ばかりさせられたため、ばぁちゃんは「学校に行けない」生活を送っていました。

「わりぃけど手伝ってくれ」と家族にいつも言われ、学校に行くことはほとんどできず、「学校に行っても薪割りや炭運び」ばかりさせられたと言います。

だから「字が(を)知らない」とばぁちゃんは言い、「学校に行きたかった」と私に話してくれることがありました。



甥っ子ちゃんとともにばぁちゃんの家に行って、私が昔話の絵本を読んであげているとヒエやアワの話が出てきます。

それをばぁちゃんに尋ねると「(ヒエやアワを)よく食べた」と話してくれます。

「不況も多くて隣の村まで歩いて行ったなぁ。うさぎの肉を食べたりもした。学校にはほとんど行かないで畑の手伝いして…」

と話してくれ、2町分(一周200メートルの校庭と同じ広さ)の田んぼと畑を「朝2時に出て誰よりも稼いだ(働いたの意味)」という話もしてくれました。



それだけではなく、

「蚕が(うちに)いて、たまごからやったもんだ。100gはいた。」

「昔はおおごとしたんだ(大変だったんだの意味)。一升(2キロないくらいかと)を背負って、〇〇から□□まで(平坦な道で歩いて3時間程度の距離、ただし山道であり整備されていない)歩いていって、通りすがりのトラックが来れば乗せてもらって、でも砂利道だからたまにトラックは止まっちまうんだ。そしたらその石をどかしてってして…」

「敵機来襲で電気消して、背中に子ども(自分より年下の子のことかと)背負って隠れて」

赤痢100日咳くらいで入院する人なんてあの時はいなかった。○○医院まで背負って歩いた4歳の子が途中で亡くなったのはかわいそうだった」

私には想像ができない、こうした数々の体験を教えてくれるばぁちゃん。

ばぁちゃんにとって「学校に行く」なんてことは贅沢で相当恵まれていないと行けないものだったことが少なくともこれらからわかりますし、ばぁちゃんを苦しめた(恥ずかしいと思わせた)「字が書けない」ということは、こうした背景があってのことだとわかったのです。



ばぁちゃんの家族は10人兄弟と書きましたが、女の子が多かったようでばぁちゃんは奉公として早くから病院に送り出されたと言います。

そこで働き続け、当時としては少し遅めのようですが、24歳になって結婚をし私が一年に一度訪れていたばぁちゃんの家に嫁ぎました。



残念なことに、この結婚はばぁちゃんの望む結婚ではありませんでした。

ばぁちゃんには当時好きな人がいたようですが、財産のあった家に強制的に嫁がされたかたちだったと言います。

そのせいか、酔ったときによく夫から「身上(しんしょう)つぶし」と言われたと言います。

「身上つぶし」というのは「財産目当てで来た人に(財産を)つぶされた」といったような意味の言葉です。

望まない結婚だったにもかかわらず、ばぁちゃんは言われもないそんな言葉をかけられていたと思うと、胸が苦しくなります。

それでもばぁちゃんは、当時は牛や馬も飼いながら農作業や山の作業をし、旅館のようにもなっていたというその家で働き続けてきました。

また「毎朝な、皇大神宮様・天照皇大神宮様、仏様、十二様、おしら様(蚕の神様)、えびす様、大黒様…八百万の神様に煮立てのごはんを皿に盛ってやる。山に入るときには、十二様に山でケガをしないように拝んでから入る。」

と、自然やご先祖さま・神様との暮らしをし続けてきて、3人の子どもを育てあげました。

ばぁちゃんのこの苦労はどれほどのものだったのだろうかと思わずにはいられません。

 

他にも多くの、ばぁちゃんにしかわからないばぁちゃんの人生があるわけですが、残念ながらこれ以上のことを私は綴ることができないので、ばぁちゃんの人生の話はここで終えようと思います。

もっとばぁちゃんに話を聴きたかったし、コロナが落ち着いてゆっくりまた会って話が聴ける日がくることを願うばかりです。



ばぁちゃんの人生から私が受け取るもの

コロナ禍で大好きなばぁちゃんに会うことができ、感情のままに、ばぁちゃんのことを書いてきました。

これまでにもばぁちゃんの人生については書きたいと思っていましたが、それはこのブログのプロフィールにあるように(宮本常一が言うように)

一人ひとりの一見平凡に見える人にも、それぞれ耳を傾け、また心を轟かすような歴史があるのである

と私が思っているためでもあり、同時に、私はばぁちゃんの人生の証人でありたいと思うから、そして、きちんとばぁちゃんから渡されているものを受け取らないといけないと思うからでもあります。



人はいたみを経験することで、人のいたみがわかるようになると言います。

確かに、ばぁちゃんのやさしさと強さはこうした数々の苦難があってこそ培われたものなのだろうと思います。

また、苦労した人の分までしっかり生きようになどとも言いますよね。

確かに、選挙権の話ではありませんが、誰かが闘ってきたことなどで今私たちが当たり前に享受・行使できる何かがあり、それを享受・行使することは大切なことと思います。



でも私はばぁちゃんの人生から受け取りたいのはそうしたことではありません。

私は「ばぁちゃんには違う人生があった」ということを受け取りたいと思っています。

これは一見残酷な表現のようにも思いますが、このことを私は直視していたいと思います。



学校に行きたいと思っていたなら、当たり前に学校に行けた人生がばぁちゃんにあってほしかったです。

好きな人と結婚したかったなら、相手も望んでくれるなら、当たり前に好きな人と結婚してほしかったです。

当たり前に病院に行き、当たり前に子ども時代を過ごすことができ、当たり前に自分の道を選べていてほしかったです。

ばぁちゃんには他にも多くのできなかったことがあったことと思います。

これを「時代だから」で済ませてはいけないと私は思うのです。

なぜなら今も「時代だから」で「できるはずのことができていない」人たちがいるからです。

それを黙認することは、今「できていることがたくさんある」人たちもいつかそれが「できなくなった」時に文句を言ってはいけないことにもなります。

それではいけないと私は思います。



ばぁちゃんの夫(じぃちゃんと呼ぼうと思います)に私は会ったことがありません。

じぃちゃんは早くに亡くなったためです。

会ってもいないのでわかりませんが(正確には会ったことがあったのかもしれませんが私が赤ちゃんの頃かと)「身上つぶし」などと酷い言葉をばぁちゃんに浴びせてきたじぃちゃんのことを私は好きになれません。

でも、じぃちゃんは顔も良くて頭も良く(もてたとも聞きました)すごい人であったと聞きます。

そんなじぃちゃんがおかしくなったのは、戦争から帰ってきてからだったようです。

戦争に行ったじぃちゃんは(詳しくはわかりませんが)馬に乗る仕事を任されたそうですが、ある時、馬にケガをさせてしまったか何かのミスをしてしまったようです。

そのミスを上司から叱責され、ものすごい暴行を受けたそうです。

そこからじぃちゃんは精神を崩してしまったようで、帰ってきてから酒に溺れては、ばぁちゃんにきつく当たるようになってしまったと言います。

ちなみに、この話をじぃちゃんはじぃちゃんの母(ひいばぁちゃん)にだけ話していたようで、じぃちゃんはこの苦しみや恐怖(トラウマ)を酒以外で対処することができなかったのだろうと思います。

娘である私の母は実の父(じぃちゃん)を「親として欠如(欠落)した人」と言いますが、そこにはこうした背景があり、誰も望んでいないことが戦争によって起こってしまったと言えるのかと思います。



こうして見てみると「時代のせい」は延々と繰り返されており、私たちは「時代」に影響され続けているわけですが、これは「時代」に大きな影響を及ぼしている「為政者らのせい」であり「私たちが取り組まないといけない」ことでもあるのだろうと私は思います。

ばぁちゃんができなかったことは「時代のせい」だけど、「時代のせい」で終えてはいけない。

そのことをばぁちゃんから私は受け取りたいと思い、ばぁちゃんのことを書きました。

 

ばぁちゃんはこの多くの困難な中でも私に多くの愛をくれ、それを私はたっぷりと受け取らせてもらいました。

感謝してもし足りないです。

私はばぁちゃんから「強さ」(と「かわいさ」)も受け取って、生きていきたいと思います。

ばぁちゃんが大好きだから、ばぁちゃんに「いい人生だった」と思ってもらいたいから、恩を送っていけるように在りたいと思います。



今回ばぁちゃんに会って、私はこう言われました。

善光寺の牛参りがあるべ。そこの部屋は光太郎にあげるからな」

この意味が私にはわかりませんでしたし、ばぁちゃんも少し認知症があるので正確な意味はわからないのですが、かつてばぁちゃんが娘夫婦に善光寺に旅行に連れて行ってもらったことがあり、そこで泊まった部屋のことを言っているのではないかということでした。

その部屋はとてもいいところで、自分の部屋だとばぁちゃんは勘違いをしていて、それを私にくれると言ってくれたのではないかと思われます。

お小遣いではなく、ついには部屋をまるごと私にくれようとしてるようで、まったくもう、困ったものです。

「その部屋にはちゃんと通帳と印鑑があるのかい?」とまで聞けませんでしたが笑、「ばぁちゃん、いい男が会いに来たでしょ」と言ったら「どこかで見たと思った。器量がいいから誰かなぁって思ったら、なんだい、光太郎かい」と笑ってくれたばぁちゃん、あなたと会えて孫は本当に幸せです。

天寿を全うするまで、どうか少しでも幸せに生きてね。大好きです。