変わらないことと、変わることを考える@公平な社会を実現するために…
更新がずいぶん滞ってしまいましたが(ロシアによるウクライナ侵攻の前…一月以上前にはほぼ書き終わっていたのですがショックが大きくなかなか本腰入れられませんでした…)、これまで「若者の投票率の低さ」を反省的に考えていく中で、若者の投票率が低いのは教育に大きな問題があるためではないか、ということについて書いてきました。
また、“私たち大人が”そのことに無自覚であること、認識不足のまま日々の業務に追われ、改善をしていかないことが大きな問題であり―あくまで私は素人ですが―それでも「公平な社会を目指して変わる必要性」があるのではないか、ということについて書いてきました。
※これら詳しくは以下のふたつの記事をご覧いただければ幸いです。
ここでは「変わる」必要のある大人たち(や教育)が「変わらない」でいるのはなぜなのか。
そして、それでも「変わってほしい」「変えていきたい」と思う中で、どうしたら良い方向に変わりうるのかについての考えをまとめておきたいと思います。
※なお「公正」と「平等」という言葉を使い分けており、両者には違いがあることは承知していますが、一緒くたにしているところもあることをどうかご容赦ください。「公正」は「偏りがないこと」という意味で使っているため限りなく「平等」と近いニュアンスで使用しています。
※また、「バイアス」の話をしますが「無意識だから仕方ない」という誤解を強化してしまわないか少し懸念に思っています。そうではないという前提があることをここに先に記載しておきます。
変わらない現状…
「若者の投票率の低さ」の背景には様々なことがあると考えられますが、そのひとつに若者が声を上げられない(上げにくい)教育システムに大きな問題があると考えてきたことは上記の記事の通りです。
おそらくこれはずっっっと言われてきたことでもあると思われ、「それでもそのシステムは変わらない」といった謎の現象が続いているというのが現状なのかと思われます(もちろん少しずついろいろなことが変わってきてはいますが)。
先日、そのことを象徴するかのようなお話を偶然お聞きしたのでここに記しておきたいと思います。
それは中学校の国語の教科書の中身とそのジェンダーバランスに関する話でした。
中学校の国語の教科書は昨年の春に改訂がされました。
改訂前の教科書は男性の作者による作品が多く取り上げらており、物語の主人公も男性であるものが多いことが指摘できるものでした(以前書いたので省きます)。
そして今回改訂の時期を迎えたのですが、改訂されたにも関わらず、教科書で取り上げられている作品の作者はほとんど男性のままであり、物語の主人公もほとんど男性である作品が適用されたようです。
盛岡大学の遠藤可奈子教授によると、このことは高校の国語の教科書でも同様の傾向があるということです。
ジェンダーギャップ指数が話題になる昨今で、ジェンダーバランスに配慮されない改訂結果となること。
その「変わらなさ」について遠藤教授は
「(変わらない理由は)文化(財)の担い手が男性中心だったからであり、女性が(表に)出てくるまでに時間がかかっているからだろう。」
と指摘されます。
加えて、遠藤教授は「女性の作者による優れた作品もあるのに」という前提を踏まえて、
「保守的なこうしたことから脱却する必要があるのではないか」
とも言及されていました。
教材で選ばれる作品は「優れたもの」でなければならないことは当然のことです。しかし、それと同じくらいジェンダーバランス(に限らずですが)が考えられ、中学・高校生たちに多様な学び・視点・経験に触れてもらうことは重要であると考えられます。
なぜならそれは子どもたちに「多様なモデル」を示すことになり、「自分で考え、声を上げる」ことの学びにつながると考えられるためです(たとえば、男性主人公のお決まりパターンの作品ばかりであれば女性は社会の中心に位置しないと刷り込まれてもおかしくない)。
それにもかかわらず、そのことが積極的に進められない、「変わらない」という結果であることは、教育業界や政治(ここでは特に文科省でしょうか)は「子どもにとっての最善」(を考えて動くべきにもかかわらず)を十分に考え(られ)ていないという象徴と言えるでしょう。
あるいは、「子どもにとっての最善」を考えてはいるが、女性作家・作品が評価されない(にくい)時代―そもそも評価する人が誰なのか・男たちだらけではないかったのかという視点も重要―に生きてきた男性たちが意思決定の場につき「それ」を考えているため、拾われない・気づかれないということだとも言えるかもしれません。
こうした保守的(とすら本人たちに自覚されていないかもしれない…)で固定化された構造を「変えないと変わらない」という現状がよく表れているひとつの例であるように私にはこの話は聞こえていました。
ちなみに、高校の国語についても少し調べてみたところ、今年の4月から高校の国語教育の内容そのものが変わるという話があることを知りました。
遠藤教授が話されれるジェンダーバランスの話とは異なりますが、「変わる」内容が「時代を逆行しているもの」となっているといった指摘がされており、本当に「変わらない」のだな…と呆れています。
そのことについてはこちらの記事をご参照いただければと思います。
→https://dot.asahi.com/dot/2021122100011.html
一部引用すると…
2022年4月から高校の国語教育が変わる。新学習指導要領にのっとって、文学よりも実用的文章を重視する傾向が強まるのだ。この問題に、「江戸時代への逆戻り」「他者の気持ちがわからない人が育つ」と怒りの声を上げるのは、献学者、山口謠司・大東文化大学教授。
(教授によると)「文学は論理的でなく、実社会に役立たない」という改革の背後にある考え方。
今回の高校国語の「改悪」は「『庭訓往来』のように定型文を覚えればそれでいいという時代に逆戻りしろ」、と言っているのと同じ。
これをやってしまうと、自分で考えることができなくなってしまいます。明治時代になり、夏目漱石や正岡子規といった文学者たちがやろうとしたのは『庭訓往来』的教育からの脱却です。
実用的文章ばかりを読んでいるだけでは、人間は受け身になって、発想もどんどん小さくなっていくでしょう。文部科学省は「論理国語」という「庭訓往来」的な教育でつまらない小さい若者をつくっていこうとしているのです。
文科省は「人を耕す=カルティベートする」つもりがないのだと思いますね。国語科では本来、もっと人間の深い「カルチャー」の部分まで耕すべきなのに、「論理的」で「実用的」な文章を重視するというのは、人間の表層部に機械をつかって種をまいているだけです。
といった指摘がこの記事ではされています。
「自分で考える」という部分が軽んじられる教育とは、果たして「教育」と言えるのでしょうか。
このような姿勢で行われる「教育」を受けていては、「声を上げられる」「声を上げていい」などと子どもたち・若者たちが思えなくても仕方ないとすら言えてしまうでしょう。
「変わらない」どころか、「逆行している」とも言える教育・政治の現状に対して私はひどく憂いていますし、この国はどうなってしまうのだろうと強い危機感を抱いています。。
変わらない・変われないのはなぜなのか
では、なぜこれほどまで「変わらない・変われない」のでしょうか。
正直、意思決定の場にいる人たちが保守的な層だから、ですべて言えてしまいそうなのですが…このことについて、個人や集団のレベルで考える場合には「バイアス」という概念が挙げられるように思うため、そのあたりからはじめてみたいと思います。
バイアスという概念
『なぜあなたは自分の「偏見」に気づけないのか 逃れられないバイアスとの「共存」のために』では、すべての人に「バイアス」(偏り)があるということを指摘しています。
引用すると
私たちの脳は、自分にとって重要な、あるいはすでに知っている観念や概念、不確定要素を中心に組み立てるようにできている。
とあり、
自分が正しくありたいと思う傾向は、じつに強力
で
これまで慣れ親しんだふるまいを変えるのは容易ではない。
と指摘されています。
当たり前のことですが、私たちは自分の見ている世界を中心に物事を考えますよね。
これもまた当たり前のことですが、だからといって、私たちが見ている世界が常に正しいわけではないですし、正しい/正しくないと割り切れるものだけで世の中が成り立っているわけでもありません。
しかし、同著が指摘するように「私の見ている世界こそ正しい」と私たちは思いがちであり、それ(そのバイアス)は思っている以上に強力なもののようです。
さらに同著では、この傾向は集団においても同様、むしろ顕著であると指摘しており、これまで多くの社会心理学者たちによって
人間は「仲良くやっていくために同調する」傾向が強いということが立証されている
といった研究結果を用いながら、
集団の同調意識に影響されると、たとえすばらしい解決策が浮かんでも、それは手放して、馴染みのある解決策や、ごく一般的な解決策に傾いてしまいがち
であること、つまり、集団が「変わる」ことの困難さについても指摘しています。
こうした指摘を受けて思い出されるのは、元東京オリンピック組織委員長であった森喜朗氏が女性蔑視発言をして辞任したことではないでしょうか。
森氏が辞任したこと自体は大きな「変化」であったと思いますが、森氏を辞任へと導いたのはその「集団」に属していない世論の力でした。
氏が実際に女性蔑視発言をした(集団の)場では、その発言は容認ないし許容され(その発言に笑いが起こったという点および指摘する者はいなかった点からその場では容認・許容されてしまったと言えるように考えます)、それだけではなく「集団」に属している人たちの中には氏をかばう人までいました。
このことは集団の同調意識の強さと「集団」が「変化」することの困難さを示しているように私には思えます。
私たちは誰もが「バイアス」を持って生きており、それは脳の仕組みでもあるとすると、「バイアス」に自覚的にならないと(なったとしても)「変化」を起こすことはかなり困難なことのように思えてしまいます。
加えて、私たちは誰もが何かしらの「集団」に属して生きているため、同調意識に支配され(される機会が多くあり)、「バイアス」を無自覚のうちに強化して生きていくものなのかもしれません。
しかし、それでも公平な社会を実現していく必要があることに変わりはありません(仕方ないでは済まないということです)。
個々が「バイアス」を自覚して改善していく必要があるのですが、このことについてはそもそも「バイアス」を自覚しなくて済む人たちとはどんな人たちなのかということを考えてみたいと思います。
「バイアス」を自覚しなくて済む人たち
「バイアス」を自覚しなくても済む人たちとはどんな人たちなのか。
結論から言えば、それは自身の「バイアス」について指摘されない人たちのことであり、その多くはこの社会で権力・権威・地位を持った人たちであると言えるように思います。
彼らは自身に「バイアス」があろうとなかろうと、社会的に成功を収めているがゆえに、「バイアス」を指摘される機会が少なく、かつ、指摘に耳を貸さなくても生活をしていくことができるという立場にあります。
一方で、力のない人たちは「力がない理由」を指摘されやすく、その指摘の中身も自身の「努力不足」や「考え方の問題」(≒「バイアス」)とされるケースが多いのではないかと思われます。
しかもそれは社会的に力のある人たちによって指摘されるという構造となっていることでしょう。
仮にその指摘によって、力のない人たちが力を持った場合(成功をした場合)には、その「力のある人の指摘」は「バイアス」ではなく「成功へのノウハウ」となり、その人の社会的な力をより強固なものとするといったスパイラルさえこの社会には存在していそうです。
こうしたスパイラルが成り立つ限り、力のある人たちは自身に「バイアス」があることなど考える必要がありません(あるいは極端に少なくて済むと言えるでしょう)。
それどころか、自身の力を維持したり広めたりすることに力を注ぐようになるため、「バイアス」を無意識に強化していく可能性の方が高いと言った方がいいかもしれません。
同著では、力を持った時に人はどのようになっていくかについて興味深い指摘をしています。
私たちは自分に力があると感じると、危険への関心が減り、報酬への関心が高まるようだ。また、他者を思いやる気持ちが乏しくなり、より利己的になる。そして、なぜ自分が今の地位にあるのかを忘れ、それを自力で獲得したと考えてしまう。
もちろん、この指摘に当てはまらない人も多くいることと思いますが、この指摘を目にしたときに私が思い出したのは、ある住民の方(Aさんとします)と政治について会話をしていたときのことでした。
Aさんから遠からずの関係であった方(Bさんとします)が社会的な力(権力・権威)を手にしたという話がその時にされたのですが、Aさんは、社会的な力を手にしたあとBさんが保守的な方向に変化していく様を見たと言います。
Aさんはそのことを「(権力を示す)バッジが邪魔をするんだ」と表現されていました。
Aさんにも「バイアス」があるため、Bさんに対する評価・表現はAさんの「バイアス」ゆえのものかもしれません。
しかし、Aさんの「バイアス」とだけで説明を終えるべきことではないように思いますし、Bさんが何かしら変わったこと自体はおそらく事実なのではないだろうかと私は思います。
これは自身の身近な経験を考えてみても想像ができるかと思います。
つまり私たちは一度何かしらの力を手にすると、その手に入れた力を「手放す」ということに抵抗を覚えるものであり「保守的になる」といったことがあるように思います。
その力が社会的な力であればなおのことです。
さらに考えられるのは、その「力」を欲したり恩恵に預かりたいと思ったりする人たちが周囲に集まるということが起こることです。
そうするとその考え方こそ「正しい」という「バイアス」が強化され、当然そこに「バイアス」に関する指摘はありません。
こうして、手にした力を守ることに力が向き、「バイアス」が強化されていき、「バイアス」を自覚しなくて済む人たちが生まれていくと考えることができそうです。
「そんなの当然で、人間の弱さ(やバイアス・心理)なのだから仕方ないだろう」と言われて、議論を終わらせられそうな気がしますが(だから変わらないということもありそう)、ここでは「弱さ」「バイアス」という個人・集団の「心理」的な問題とだけ捉えて、「仕方ない」こととして終えるのではなく、「バイアス」を自覚しないで済む人たちが「力を手放せなくなる」のはなぜなのかということを、もう少し考えてみたいと思います。
能力主義と自己責任論が横行する社会
なぜ人は力を手放すことができないのでしょうか。
個々人の「バイアス」や集団にそれが働くこと、人間の「弱さ」といったことがこのことに影響していることは間違いなさそうですが、ここには社会に蔓延している能力主義と自己責任論が大きく影響しているのではないだろうかと私は考えています。
『差別はたいてい悪意のない人がする 見えない排除に気づくための10章』によると、能力主義とは
才能と努力によって人はだれでも成功できるという信念
のことを指します。
今の(日本)社会は、自身の才能と努力次第で誰もが成功できる・活躍できるという前提で成り立っており、様々な場面でそうしたエピソードが語られているように思います。
たとえば「逆境を乗り越えて成功した○○のストーリー」などがそれに当たり、これもまたオリンピックの話で恐縮ですが、白血病と診断され闘病生活を送っていた水泳の池江選手がオリンピックの舞台に帰ってきたことは連日ニュースとなりました。
本当にすごいことだと思いますし、多くの人が驚き、希望をもらったことは確かでしょう。
ニュースにされることもよくわかりますし、私自身(病気から回復されて活躍できている)池江選手のそのニュースは嬉しいニュースでもありました。
しかし、当然のことながら誰もが池江選手のようになれるわけではありません。
それは言うまでもなく、「努力」が足りないからではありませんよね。
それでも池江選手のエピソードを扱う際には、池江選手のようにはなれない人がたくさんいるという現実は伝えられません。
そうした人たちに「希望」という名を使って「努力」を強いてしまわないようにということも当然ながら積極的に語られません。
視聴率が求められるニュース(視聴者目線を含め)ではそのように扱えないということに過ぎない話かもしれませんが、このことは私たちが(社会として)能力主義の中で生きることを許容・歓迎している象徴でもあるかのように私には映りました。
誰もが飛びぬけた「才能」を持っているわけではありませんし、「努力」によって必ずしも「成功」できるわけではない。
つまり「能力主義は万能ではない」と私たちは理解しているはずなのですが、なぜか能力主義を社会として許容・歓迎している…この矛盾が起こっているのはなぜなのでしょうか。
このことはおそらく、これまでの封建主義・身分制度があった時代の不平等が関わっているのだろうと理解しています。
生まれた瞬間に将来(の身分・職業)が決まってしまう時代がかつてはあり、それはあまりに不平等であるために、「能力」や「努力」に応じて「成功」できる社会にしていったのだろうと考えます。
しかし、能力主義は不平等を解消できていないと考えるべきでしょうし、能力主義を許容する社会は自己責任論を横行させるということにもっと注目する必要があるのではないかと私は考えます。
同著では、このように指摘します。
努力と才能さえあれば、だれであれ高い地位に上ることが可能だと信じるなら、現に社会的地位が低いのは、最善を尽くさなかった結果であり、自己責任であると受けとれる。
こうした能力主義によれば、階層が存在すること、つまり不平等な構造自体には問題がない。むしろ、競争に注いだ努力に報いるためには、格差をつけて待遇するほうが公正な社会なのである。
また、『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の著者であるサンデル氏は、
能力主義の理想は(略)不平等の正当化なのだ
と指摘しています。※この本についてはこちらの動画を参照しました。
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能力主義を前提にするのであれば、この社会で権力・権威を持つ、いわゆる成功している人が成功できたのは「自身の才能と努力のおかげ」であるとすることができます。
これは「希望」を与えるかもしれません。
しかし、この文脈からいくと「成功していない人」は「自身の才能と努力が足りなかった結果」と捉えられることになります。
その捉えられ方は「成功しなかった人」は本人の「努力不足」なのだから「仕方がない」と切り捨てられることをも許容してしまいます。
「失敗」もまた「自己責任」だからです。
また「努力」と「才能」によって成功する人としない人とが分かれ、それが「自己責任」の結果とされるならば、そこに格差が生じること、つまり不平等な社会ができること自体はなんらおかしくないこととなります。
成功者は自身の「正しさ」や優越感を感じられるため、その社会に心地よさすら感じてしまうかもしれません(サンデル氏の言う「不平等の正当化」ですね)。
こうした仕組み・構造の中で生きている限り、私たちは「自身の努力によって得た力」を手放すことは選択しないでしょう。
そもそも「自身の努力」で成功を得たので「変わる」必要性を感じることもないでしょうし、不平等が正当化される社会は「成功」した場合には自身は「変わらなくてもよい」という担保を与えるようなものだとも言えるように思われます。
力を得たのは自分のおかげ。その力を失うのもまた自己責任。
それでは保守へ進んでいくのも、結果自身の「正しさ」を疑い「変わらない・変われない」ということもうなづけてしまう気がします(肯定・正当化の意味では決してありません)。
こうした社会の仕組み・構造が力を手放せないこと、ひいては、「変わらない・変われない」ことを強化しているのではないかと私は考えます。
気づきにくい特権と歪んだ平等の考え方
上に挙げた「不平等の正当化」という文脈から、もう少し「変わらない・変われない」理由について考えてみたいと思います。
まずはじめにTwitterで批判が殺到したある方の投稿を引用したいと思います。
その投稿というのは以下となります。
「多様性というのはしんどい、厳しい、それでもやるか?」これが真実で、本来万人に問いかけられるべき内容で、それでも進もうと決まれば進めば良いと思うが…「多様性というのは優しい、素晴らしい、勿論やるよね?」これが主流になっている時点で何かが狂ってると気づかなアカンのよ
(AkiraMIYANAGA、2021年11月26日)
みなさんはこの投稿をどのように考えるでしょうか。
この投稿から伺えるのは、少なくともこの投稿をされた方は「多様性」というものを普段「考えなくて済んでいる」立場にいるのだろうということと私は考えます。
ご自身が「多様性」を周りに「考えさせる」立場にいて「しんどさを周りに感じさせている」という目線から発信している可能性も0ではありませんが、「多様性」を「考えてあげないといけないしんどいもの」という目線で語っていると捉える方が自然と思います。
これはある意味で「不平等の正当化」のひとつの例ではないかと私は考えるのですがいかがでしょうか。
この社会はマジョリティ仕様でできています。
二足歩行者が前提で町は作られており、異性愛者が前提で会話がなされています。
でも歩行困難者も同性愛者も社会には当たり前にいますよね。
このように「多様性」というのは本来すでにそうなっているものです。
それにもかかわらず、「多様性」が「しんどい」と言うことができるのは、「多様性」について「考えないでいられる」人たち(=マジョリティ)がいるということを表しており、その「考えないでいられる」人たちが「考えないでいること」を正当化していることになると考えます。
上記の投稿を「不平等の正当化」の例ではないかと私が捉えたのはこのような理由からです。
「考えないでいられる」マジョリティ側の人たちが、「不平等を正当化」し続ける限り―そのことに無自覚でいる限り―この不平等な社会は「変わらない・変われない」のではないだろうかと私は考えます。
このことについては「マジョリティ特権」という概念で考えることができます。
「マジョリティ特権」についてはこれまでもこのブログで書いたことがあったかと思うので説明は最低限にさせていただきますが、「マジョリティ」というのは「多数派」のことを示し、これは「数の多さ」に限定されるものではなく「より多くの力(権力)を持っている」ということを指しています。
また「特権」とは
「与えられた社会的条件が自分にとって有利であったために得られた、あらゆる恩恵」
(『差別はたいてい悪意のない人がする 見えない排除に気づくための10章』より)
のことを指します。
つまり「マジョリティ特権」とは「力を持つ側・多数派が、そうであったがために得られるあらゆる恩恵」のこととなります。
この「マジョリティ特権」で大切なところは、上智大学の出口真紀子氏が指摘するように「努力をしたから得られる優位性ではない」というところにあり、「労なくして得られている」がゆえに「特権は、持っていることに気づかないという構造がある」というところにあると考えられます。
「灯台下暗し」という言葉がありますが、マジョリティ仕様の社会では、マジョリティ仕様であるがゆえに「特権」はマジョリティにとって「ふつう」のこととして成り立っています。
もしこの世界が耳の聞こえない人の方が多い社会であったら(そういう人たちの方が力があるならば)、耳が聞こえない人が前提で社会が成立していたはずです。
もしかしたら、私たちが当たり前に耳にしている音楽や声は、耳が聞こえない人が前提の社会ではほとんど価値を持たなかったかもしれません。
防災無線などは音声案内が当たり前となっていますが、それは耳が聞こえる人の方が多く、そして力を持っているからに過ぎないと考えられます。
耳が聞こえない人の方が多く、かつ、力があれば、音声案内では成立しないことは早々に指摘されているはずであり(そもそもその発想が出ない・力を持たないなど)違う方法が採用されているでしょう。
そしてそれこそが「ふつう」になっていたでしょう。
そう考えると、「耳が聞こえる」私たちは「たまたま耳が聞こえる」に過ぎないのですが(労なくして得られている)「耳が聞こえる」というマジョリティ性を持っているのは、マジョリティ仕様となっているこの社会において(安心して暮らせることを含め)「特権」を持っているということと理解できます。
しかし残念ながら、私たちは普段このように考え理解する機会を滅多に持ちませんし、気づく機会もありません。
なぜなら、そうした機会を持たなくても「ふつう」に暮らしていけるためです。
そのことがそもそも「特権」なのですが、マジョリティ特権が「特権」であるということに気が付きにくいことはご理解いただけたかと思います。
繰り返しになりますが、マジョリティ側がこの「気づきにくさ」を認識し、そのことに目を向けない限り(残念ながら)「変化」は起こりにくいでしょう。
力を持っている方が変わらなければ、変化は難しい(遅い)に決まっています。
ここで厄介なのは「気づかないでいられるマジョリティ」は「平等」を歪んで捉えている可能性がある点です。
変わらないどころか逆行する可能性(現実)について冒頭に書きましたが、それはこの点にあるように考えます。
『差別はたいてい悪意のない人がする 見えない排除に気づくための10章』では、そのことを次のように指摘しています。
すでに特権を持った側の人間にとっては、社会が平等になることが損失として認識される
「特権」を持ったマジョリティ側は、現在自分が「ふつう」に暮らせているので、この「ふつう」の暮らしは「秩序」であると考えます。
このことは意識的に差別をしたり「平等」を望まないという人はめったにいないので、自分たちの「秩序」はもうすでに「平等」となっているのだという認識に陥りやすくなることを表します。
つまり、現在がもし仮に「平等」ではないとされるならば、「平等」にするためには自分たちの「秩序」を壊さなければならない、自分たちの「力」を「手放」さないといけないのではと考えるのです。
このことについて、同著ではこのように指摘します。
平等をゼロサム・ゲームとして認識するなら、相手が得るメリットはすなわち自分の損失だと考えられる。
また、
平等を総量が一定の権利の配分をめぐる競争だと考えると、だれかの平等が自分の不平等につながるように感じられてしまう。ほんとうは、相手にとって社会が平等になれば、自分にとっても平等になると考えるのが論理的な考え方のはずなのに。
これらの指摘にあるように、「平等」というのは本来「みんなにとって」のものです。
しかし、マジョリティ側は自身の「特権」に「気づかない」がために、さらには能力主義の社会に生きているがために、「平等」はすでに実現している、とか、「平等」も「勝ち取る対象」であるなどと認識してしまう可能性があります。
これは「平等」は「得られる人とそうでない人がいる」という矛盾した考え方なのですが、それは「不平等の正当化」によって「見えなくする」ことがマジョリティ側にはできてしまいます。
こうしたことが「変わらない・変われない」という現状に大きく作用しているのではないだろうかと私は考えています。
それでも、公正な社会を実現していくために…
個人や集団の「バイアス」という視点、また、社会に蔓延る能力主義やマジョリティ特権という理解の欠如から、「変わらない・変われない」現実があるのではないだろうかということを書いてきました。
こうした中でー言ってしまえば大きな困難を前にー公正な社会を実現していくために私たちはどうしたらいいのでしょうか。
それがわかれば苦労はないのでしょうけど…公正な社会への実現のために考えていることについて(心もとないのですが…)いくつか書いてみたいと思います。
平等でないことの懸念
まずはじめに「平等」についてもう少し考えてみたいと思います。
先に書いたように「平等」はゼロサムゲームではなく、「みんなのもの」です。
「平等」な社会とは“みんなにとって“「平等」な社会のことであり、「平等」な社会の実現というのは“そのこと”を目指すということになります。
言い換えれば、「平等」な社会というのは「私やあなたがどのような属性・立場であったとしても平等に扱われる」社会ということです。
私たちは生まれてから死を迎えるまでに、多くの経験を重ねます。
その経験の中にはできれば経験したくないものもあり、たとえば病気や災害、失業や失恋、暴力や大切な人との死別などが挙げられることでしょう。
それらの経験は(リスクを下げることは多少できるかもしれませんが)たいていは自分で経験するかしないかを選べない経験であり、「思いがけず」経験するものです。
良好な精神状態というマジョリティ側にいた自分が、ある日突然「思いがけず」精神疾患に罹患することもあります。
健常者というマジョリティ側にいた自分が、「思いがけず」事故に遭い障害者となることもあります。
その時にもしみんなにとっての「平等」ではなく、マジョリティにとっての「平等」な社会だったらどうでしょうか。
自己責任論がまかり通るため、「不運だったね」と切り捨てられることもあり得てしまいかねません。
「精神疾患になっているので働き方に配慮してほしい」とか、「障害を負って歩行が困難なのでリモートで働く機会を増やしてほしい」とか、そういうことは「特別扱いだ」と言われてしまい、「逆」に「不平等」「不公平」だと言われたりしてしまうかもしれません。
そういうことを社会が許容してしまっているということになりますが、それでいいのでしょうか。
以前、私はロービジョンの方からお話を伺う機会がありました。
その時にその方がおっしゃっていて印象に残っているのが、
「見えなくなったら人生終わり」/「なんて思わなくていい」という言葉でした。
「見えなくなったら人生終わり」という考えがあることについて話されており、「なんて思わなくていい」の間(/の部分)にはまだ溝がある、つまり“正しく知れば”「そう思わなくてもいい」というように話がされていたのです。
上記した精神疾患や事故の例はある種「災難」という側面が確かにあるのかもしれず、自分事として考えにくいところがもしかしたらあるかもしれません。
しかし、私たちはみな平等に歳を取っていずれ弱る存在であり、当然、視力も弱くなっていきます。
ちなみに、高齢者のうちの7割近くがロービジョンである可能性があることもその方は指摘されていました。
「見えなくなったら人生終わり」や溝(/の部分)は、誰もが経験している(していく)であろうことを放置しているがゆえにある考え方と言えるでしょう。今がまだまだ「不平等」(偏った「平等」)な社会であることを表していると考えられます。
みんなにとって「平等」な社会であれば、溝(/の部分)は限りなく埋まり、「そう思わなくてもいい」ことが「ふつう」となります。
それが「ふつう」という社会は、「人生100年時代」と言われる中でより多くの人が安心して生きていくことができる社会であると言えないでしょうか。
少し回りくどくなってしまいましたが、ここで私が言いたいのは私たちの立場というのは思っている以上に不安定であり、今の立場はいつ失われるか、逆転するかはわからないということ、つまり、偏った・歪んだ「平等」で恩恵に預かっていられるのは限定的であるということです。
私たちはコロナ禍を経験したことで、このことを深く理解したように思うのは私だけでしょうか。
コロナ前は外に出て人とコミュニケーションを積極的に取れる人や、多くの人を集められる人・空間こそが、社会的に「成功」していて「推奨」されていました。
しかし、コロナ禍においては外に出ないでいられる人や人と積極的にコミュニケーションを取らなくても健康でいられる人、小さな集まりが想定された空間などが注目されるようになり、見直されることになりました。
エッセンシャルワーカーという言葉もコロナ前には注目されなかったのに、コロナを経て一気に注目を集めました。
それらの価値が現実として反映されるようになるまでにはまだ時間がかかってしまう(それこそマジョリティ側が変わらないと反映されないのかもしれませんが…)、あるいは、コロナ前に戻ってしまう一時的なものであったのかもしれませんが、それでも、私たちの立場の不安定さ・危うさは誰もが実感したのではないかと思います。
『映像の世紀』のシリーズで(何話か忘れてしまいました…)ナチスのユダヤ人迫害の歴史に関する話では、ドイツ人と交際をする女性たちについて描かれる場面がありました。
ドイツが力を行使できている時にドイツ人と交際をする女性たちが増え、彼女らは「安定」した立場を確保することができていたのですが、ドイツが敗戦したあと、その女性たちは髪を刈られるなどといったひどい扱いを受けてしまいました。
文字通り、立場や状況があっという間に一変したのです。
これは戦争といった特殊な例ですが、本当に残念なことに戦争すら今の社会では起こりうることとなってしまっています。
当然、戦争など絶対に起こしてはいけませんし、コロナ禍であった変化のどちらか一方を完全に「善」「悪」などとすることも注意せねばなりませんが、私たちは事故や老化という個人に起こるレベルではないところでも、いとも簡単に、そして「思いがけず」立場の逆転(喪失)を経験しうる存在なのです。
そうであるならば、「思いがけない」ことが起こったときにも「平等」を享受できる社会の方が安心して暮らせると考えられますが、いかがでしょうか。
「不平等」を正当化するということは、一部の人が「不平等」を感じていても仕方ないとするということであり、これは社会全体の「平等」に対する考え方をそもそもゆがめることにつながります。
「一部の人が不平等であることには正当な理由がある」とすることは、自分がいつその「一部の人とされるかわからない」というリスクを積極的に引き受け(力を持ったものによっていくらでも理由は作られてしまうため)、そうなったときに「不平等な扱いをされてもよし」と考えているということになります。
果たして、本当にそれでいいのでしょうか。
「平等」について考える時、「平等」ではない社会を許容するとはどういうことかを考える必要があると思います。
能力主義を疑い、共存する方法を探る
では、実際に「平等(公正)」な社会にしていくためには、どうしたらいいのでしょうか。
繰り返しますが、それがわかれば苦労はありません。
ここで私が挙げられるのは、「変わらない・変われない」理由として挙げた能力主義とマジョリティ特権のあたりにヒントがあるのではないかということです。
素人なりの考えをまとめてみたいと思います。
まず能力主義についてですが、私たちはそもそも能力主義から完全に離れることは難しいだろうと考えていることを予め共有しておきたいと思います。
能力のある人に政治家になってもらいたいですし、能力のある人に教育の場にいてもらいたいというのはその通りであり、ある程度は能力を持つ人たちが社会で活躍するということからは逃れられないのだろうと思っています。
そのことを前提においた上で、大事なことは能力(力)第一主義を疑うことであり、能力の多様性に注目して共存していくということではないだろうかと考えます。
能力第一主義を疑うということについては『未来をはじめる「人と一緒にいること」の政治学』に興味深い話があるため、引用したいと思います。
著書の宇野重喜氏がアメリカの哲学者であるジョン・ロールズの考え方を説明するにあたり、元プロ野球選手で大成功を果たしたイチロー選手について話された部分となります。
(イチロー選手が)野球で儲けることができる現代社会に生まれたというのも、ある意味で運と言えるかもしれません。たまたま生きた社会が、野球の才能を認めてくれる社会だった。(略)彼の成功がすべて彼の力によるとは言えない。
私は野球少年でしたので、イチロー選手がどれだけすごい選手であるかということ、そして誰もがイチロー選手のようになれるわけではないということをよく理解しているつもりです。
しかし、才能と努力以外でイチロー選手について語られることはこれまでなかったように思いますし、ましてや宇野氏が説明されたような考え方は全くと言っていいほど大人たちから教わることはありませんでした。
子どもたちから夢を奪ってはいけないという理由からだったかもしれませんが、私はこの考え方をきちんと学んでいたかったと今になって思います。
もう少しこの考え方を深堀りするために、同じ野球つながりで、昨シーズン大偉業を成し遂げた大谷翔平選手について考えてみたいと思います。
大谷選手の偉業については語るまでもありませんが、メジャーリーグの舞台で投手と野手の二刀流をこなし、超一流の成績を残したうえに数々の賞を総なめしました。
そうした「成功」だけでなく、メジャーリーグのルールを変えてしまうといった異例のことも実現させ、多くの人たちを魅了しました。
そんな大谷選手ですが、こうした偉業・成功は大谷選手の才能と努力だけで実現したものなのでしょうか。
私の知る範囲となってしまいますが、大谷選手はこれまでに何度もケガに見舞われています。そのたびに試合を欠場し、手術をし、リハビリをするといった生活を送っていました。
リハビリ生活においては徹底した管理がされていたと言います。
また、練習においても身体の負担を減らすために最新機器が使用され、データ等を駆使して、大谷選手が最高のパフォーマンスができるようにといった環境が整えられています。
他にも、先ほど触れたメジャーリーグで先に活躍していたイチロー選手へ相談をしアドバイスをもらったこともあれば、大谷選手の所属チームで監督を務めたマッドン監督が大谷選手の気持ちを最大限に尊重した起用方針を示し続けたということもありました。
私の知る範囲だけでも大谷選手の成功の裏には、これだけ多くの「巡り合わせ」があるということが挙げられます。
これらは大谷選手の才能と努力で得られたものなのでしょうか。
もちろん、大谷選手にずば抜けた才能・将来性(身体能力等)があったことも、苦しい練習(効率的な練習を含む)や管理に耐えられる力(努力)があったことも、愛される人柄である(磨いてきた)ことも決して否定しません。
それらがなければこれだけのことが動かなかったということも間違いないだろうと思っています。
しかし、もし、大谷選手の生まれ育った家庭が貧困などの環境であったとしたらどうだったでしょうか。
栄養が足りなかったり、勉強や運動を自由にする時間がなかったりしたら、彼の将来性は野球というスポーツで見出されていたでしょうか。
もし、大谷選手が幼いときにトラウマとなる出来事を経験し、安心して練習ができる精神状態でいられなかったとしたらどうだったでしょうか。
もし、戦争や気候危機などによって練習することもままならなかったら、大谷選手の成し遂げた偉業はあったでしょうか。
こうしたことだけではなく、宇野氏がジョン・ロールズの説明で言われていた理論で考えてみると、もし野球というスポーツが社会的に価値のないものとされていたら、あるいは、そういった時代に大谷選手が生まれていたら、どうだったかと考えることもできます。
このように考えていくと、おそらく、と言いますか、間違いなく、昨年の大谷選手の偉業・成功はなかったことでしょう。
大谷選手の偉業・成功にはかなりの「運」が関係していると考えることができると思います。
「努力している彼に失礼だ」とか「そんなことはただの妄想であり極端な話だ」とかと言われてしまうかもしれませんが(言いたくなる気持ちもわかります)、才能も体型も人との縁も、時代も家庭環境も経験する出来事も生まれてくる時代も世の情勢も…すべて偶然に大きく左右されているものではないでしょうか。
言い換えれば、どれも自分で選び、思い通りにできるものではないということです。
2030年までに脱炭素社会にしないといけないと言われていますが、大谷選手が2050年に生まれていたら、夏も冬も外で野球ができない環境となってしまっていたかもしれません(シャレにならない話です)。
今起こっている戦争が世界を巻き込むものとなってしまったら(考えたくもないくらい恐ろしいことです…)野球どころではない時代がきてしまうかもしれません。
未来を見れば、第二の大谷選手や大谷選手を越えるかもしれない逸材が生まれる可能性がありますが、彼らは芽の段階で閉ざされてしまうということもあり得ます。
これは過去を遡ればすでに「あったかもしれない」ことでもあると考えられるでしょう。
成功・偉業は「偶然」、つまり「運」に大きく左右されている。
このことにもっと私たちは目を向ける必要があると考えます。
この章の冒頭に書いたように、私たちはある程度能力主義からは逃れられないでしょう。能力主義が求められている部分があることも確かです。
「努力をすれば誰もが成功できる」という信念は、ある種「夢」のあることであり、たとえば、ジェンダーギャップ指数の低い日本において「女性でも」努力すれば報われるといったことが問題解決のカギと思えてしまう側面すらあります。
→https://youtu.be/iugjCPB3oz4参照
しかし、能力「第一」主義は「不平等」な構造だけでなく、この「偶然性」や「運」を隠します。
成功に才能や努力があったことは否定できませんが、「偶然性」や「運」が大きく関与していることもまた否定できないはずなのです。
まずはそのことを理解することが重要となるでしょう。
そのことが理解できれば、サンデル氏も言うように成功者は「謙虚になること」ができます。
謙虚になるということは、自身の得た力ないし「特権」を自覚し、周りに分配・還元できるようになるということにつながる(可能性を高める)と私は考えます。
それは公正な社会にしていくために重要な動きです。
そして、成功してないという現象もまた「偶然」「運」によって成功していないと考えられるため、そのことはその人にすべての責任があるわけではないという理解を促します。
それは自己責任論からの脱却へつながるように思います。
「それでは怠惰のままの人が出てくるじゃないか」と言われてしまうかと思いますが、これについては「時代」を考えるべきではないかと私は考えています。
おそらくこれまでの時代では、人々が「怠惰」でいては世の中が回らなかったということが確かにあったのだろうと思います。
コロナ禍で経済活動がストップしてしまうということを私たちは経験しており、今もその面はもちろんあって非常に厳しい状況に立たされているわけですが、AI導入が進み人口減少が進み、SDGs的なことが必要とされる「時代」となっており、そうした「時代」においてはエッセンシャルワーカー以外の仕事は極力、「人の手がなくても」人が豊かに生きていくための方策・システムを考えねばならないのではないかと思われます。
また「余暇の過ごし方」と言われるようになって久しいですが、これまでのような経済成長右肩上がりから、私たちの暮らし方が見直される必要性は言われており(これも久しいですがなかなか変わらない…)「暇」な時間をどう豊かに過ごすか、人間らしく過ごすかが問われているはずです。
「怠惰」が歓迎されているとまでは言いませんが、いかに人間の活動をなだらかなものにしていくかが今後求められていくことはおそらく間違いないと思われ、先の指摘は「時代」から見ると本筋からはずれが生じるように考えます。
また、人々が「怠惰」になる理由とは何かを考えてみると、私はマッチングがうまくいっていないということが挙げられるのではないかと考えています。
つまりその人が活躍できる場・環境とのミスマッチです。
これは能力の多様性に注目する必要があるという話とつながります。
私たちは様々な能力を有しています。コミュニケーション能力とか、論理的思考能力とか、文章力とか、表現力とか…様々な「能力」がありますよね。
個人的にはそれらの多くは数値化が難しいものなので、そもそも適切な評価などされるものなのだろうか…という疑問を抱いていますが、様々な能力で構成されているのが私たちであり、社会や時代によってその能力に「優劣」がつけられているというのは、大谷選手の例でもお分かりかと思います。
この「優劣」が見直され、多様な能力を有している存在であり、どれも同等の価値があるものとされる必要があるのではないかと私は考えています。
さらに言えば「○○力」などと言われない能力(たとえば、優しいとか、慎重さがあるとか、一緒にいるとなんとなく落ち着くとか)を私たちは多く有していますよね。
人を傷つけたり法に触れたり人道に反したりするもの以外のこれらの力の価値も見直されるべきではないだろうかと考えます。
こうしたことが見直されるために(非現実的かもしれませんが…)社会システムとして、きちんとそれらに報酬が発生するようにならないだろうかと思うのです。ひとつの能力や能力そのものにとらわれないシステム(評価・報酬の発生に関するシステム)が導入されるということです。
Youtuberが職業として当たり前となりましたが、ひとりひとりの持つ多様な力ーそしてそれは取るに足らないと今はまだ思われているものも多いーが誰かにフィットする(マッチングする)ことというのは多くあります。
※それだけで生活ができるという時代はまだまだ先(あるいは来るかどうかわかりませんが)かもしれませんので、ベーシックインカムや累進課税制の導入などとセットで、こうした風潮・評価システムが作られていくことが望ましいかもしれません。
こうした社会は完全に能力主義を脱したわけではありませんが、能力第一主義が疑われ、能力の多様性が社会的にも評価されていくことになったとき、「平等」への視点が少なくとも今よりは歪んだものとならずに、目指されていくことになるのではないだろうかと(素人ながら)私は考えます。
マジョリティ特権に気づく機会を
続いて、マジョリティ特権について考えてみたいと思いますが、これはマジョリティ特権に気づく視点・機会を持つ(ような教育・研修が導入される)ことが必要ということに尽きるように思っています。
多くの人がマジョリティ特権を自覚することは公正な社会にしていくために重要なことであり、同時に、ひとりひとりが安心して生きていくためにも重要なことなのではないかと私は考えています。
「特権」と言われるとどうも抵抗・反発・拒否を示す人が多いようですが、私はこの「特権」という概念はひとりひとりにとって生きやすくなる概念ではないだろうかと考えています。
というのは、マジョリティ特権を考える際には「社会モデル」と言われる視点を持たざるを得なくなるためです。
これは障害に関して用いられてきた言葉であるようなのですが、ある方の障害について考える時に、その人の障害を「個」の問題として考えるのを「医学モデル」と言い、「社会」に問題があるとして考えるのを「社会モデル」と言います。
たとえば、歩行が困難になった方がいた時に、「医学モデル」はその人の歩行の困難さが自身の足の動かなさ(たとえばです)にあると考え、そこに焦点を当てて(これもたとえばですが)リハビリをするというアプローチを取ります。
一方、「社会モデル」で捉えると、歩行が困難であっても暮らしていけない社会の側に焦点を当てて、たとえばエレベーターをきちんと整備するということや、車いすでも安全に通行できる道路の幅にするよう動くといったアプローチが取られることになります。
どちらも大事な視点ではありますが…もうお気づきの方も多いかと思いますが「医学モデル」は自己責任論と近くないでしょうか?
すごくざっくりと言ってしまえば、個人で努力をして自身の障がいを乗り越えていき社会に適応していくようにする(少し乱暴な言い方ですが)のが「医学モデル」です。
この考え方を否定するつもりはありませんが、これまで書いてきたように、この考え方には限界があります。
限界があるにもかかわらず、なお強いられてしまったり、周囲から「がんばれ」と言われる可能性すらあります。
それは強者以外にとっては大変苦しいものとなると考えます。
一方で、「社会モデル」だとどうでしょうか。
先ほどの例で、あなたが歩行困難者になったときに、「医学モデル」的にがんばってリハビリすることもいいと思いますが(ある程度は必要でしょう)、社会が歩行困難者にとって理解がある社会であれば生きやすいのではないでしょうか。
そこに限界はありませんし(試行錯誤は続きますが)、同時に、理解ある社会になったとして誰かが特段に困る・苦しむということもありません。
「社会」というとわかりにくいので身近なことで単純化して見てみれば、あなたが子どもの時に歩行困難者になっていたとして、学校にエレベーターが設置されることになったら、誰かが苦しんでいたでしょうか。
あなたが会社員の時に歩行困難者になっていたとして、職場の通行スペースが車いすでも通れる広さになったら、誰かが苦しむのでしょうか。
むしろ、豊かな空間・生きやすさの恩恵を得られる人が増える可能性すらあるように思うのですがいかがでしょうか。
もちろん「予算はどうするんだ」という話や時間がかかるということもあると思います。そして、「エレベーターを使ってはいけない生徒からしたらずるいと思うじゃないか」「通路を広げたら職員のデスクスペースが狭くなってしまうじゃないか」といった話が出てくるのかなとは思うのですが、それこそがマジョリティ特権に無自覚でいるということになります。
なぜなら、マジョリティ特権というのは「社会」における優位性(力の傾き)を自覚するということだからです。
マジョリティ特権について考えるときは、必然的に「社会モデル」で考えるということになるため、マジョリティ特権に気づくことができる(その視点を持って考える)ということは、みんなにとって(社会にとって)の「平等」(公正)を考えるということになります。
みんなにとっての「平等」が考えられる人が増えれば、ひとりひとりが安心して暮らせることに近づきます。
そうしたことから、公正な社会にするためにはマジョリティ特権に関する教育がより多くのところで実践されていくことが重要なのではないだろうかと私は考えます。
できることは身近に「も」ある
能力主義を疑い共存することや、マジョリティ特権に気づくように訓練することはシステムとしてそのようにしていくことが重要と思います。
ただ、矛盾するようですがこのシステムを変えられたら多くのことを変えていけるのですよね。なぜならそれは意思決定の場が変わったということだからです。
その点ではこの記事を書くことになった「投票率」の問題や政治を変えていくということが最も重要な動きになるのかなと思うのですが、身近な部分でできることについても考えておきたいと思います。
無論、能力主義を疑い共存するように意識することや、マジョリティ特権に気づくための研修を受けるということなどはそれに当たりますが、もっと身近なレベルで考えてみるということを最後にまとめたいと思います。
能力主義を疑い共存することやマジョリティ特権に気づくということは、「自分と他人とでは違う人間であり属性が異なるため、見えている景色が違う」という当たり前のことを自覚するということと少し近いように私は考えています。
そこにある抑圧構造などに着目していくことがより重要になると思うのですが、まずはその当たり前を共有することからでもあるのかと思うのです。
そのためにできることはたくさんあるように思います。
たとえば、積極的に誰かと立場を逆転する経験(機会)が学校や職場などで導入されたり、ジェンダーバイアスをはじめ、様々な偏りに気づく経験(機会)を積み、なぜそれが生まれているのか、そしてそれがどのように是正されていくことがよいのかということを学んでいくことなどがあるように思います。
私は関東から東北に移り住んだものですが、関東から見る日本といわゆる地方から見る(東北からというのもまた重要でした)日本では全く違って見えるという経験をしました。
また、関東では内にいる人間でしたが、東北では「よそ者」という立場となり「外からの視点」ということの重要性(偏りを含む)も学ばせていただきました。
その経験は私にとって大変大きなものとなっています。
※その経験がなければ、こうした記事を書くこともなかったかもしれないと思うとぞっとします。
もちろん、これは大掛かりなことなので容易なことではないのですが、立場を変えてみる、違う意見(外からの意見)を聞いてみるということ自体は簡単にできるはずです。
私の場合は普段相方と共にテーブルで食事をするのですが、座るイスを逆(相方のイスに私が座る)にしてみたり、普段お願いしてしまっている家事を私が意識的にするようにしてみたりといったことをしています。
それだけでも「あっ、こっちに座るとエアコンの風が当たりにくくて寒いかも」とか「自分はここが気になっていたのだけど、この家事をやってみるとここには手が届きにくいな」とか、そういう気づきがあるものです。
それでも気づかないことがあるということや、相手のことをそれで理解できた、立場を変えて見ることができるようになった!などと思うのは的外れなのですが、こうした取り組みを意識的にしてみる、会社や行政、企業などはそうしたことを仕組みとして導入してみるということは少しはよい方向に向かうのではないだろうかと思います(希望的観測を込めて…)。
たとえば、意思決定の場に普段立たない人に立ってもらう機会を作る。そもそも必ずその位置に多様な人を配置する体制づくりをする。
もっと小さなことで言えば、お茶出しを女性に無意識にさせてしまっているようであれば、普段そういうことをやらない男性社員にしてもらう機会を多く作るとか、性別と関係ないルーティン性にするとか、そういう取り組みはいくらでもできるだろうと思います。
会議などの話し合いの席には、利害関係のない第三者ー異質なよそものーに入ってもらい指摘をしてもらう、といったこともできるでしょう。
それらの体験から気づくことや、自身の特権についても気づくことについて話し合う機会を積極的に作ることは大事なことのように思います。
繰り返しますが、システムを変えることが重要ですし、こうした取り組みで「理解した」「偏りを解消できた(平等が実現した)」などと考えるのは短絡的すぎますし、そういう話ではないので注意しないといけません。
ですが、どこに自分の「特権」があったのか、どこに偏りがあるのかに気づく機会があまりに足りないのが今なのではないかと思うのです。
これは社会の偏り・抑圧・差別構造を矮小化する意味に聞こえてしまうかもしれませんが…右利き仕様になっている社会で左利きの生活を実際に試してみるということからでもいいのかもしれません。
こうしたことから、日常にある特権・優位性に積極的に気づこうとしてみるということが重要なのかもと感じています。
その積み重ねが、自らが気づかずにしているマイクロアグレッションに気づくことにもつながっていくようにも思います(マイクロアグレッションについての教育も無論必要ですが)。
これらは、子どもたちに「バイアス」を再生産していかないという取り組みにも(わずかながらかもしれませんが)つながるのではないでしょうか。
そういう取り組みを積極的にしていきたいものです。
ずいぶん長くなりました。
長くなりながら、全然まとまらず、また斬新な意見も解決策も見いだせず、、大変申し訳ない気持ちでいっぱいです。
この記事の最後に、この記事で引用してきた著書の重要な部分(多すぎて載せられないのですが)を引用して終えたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございます。公正な社会に向けて、できることをしていきたいです。
『なぜあなたは自分の「偏見」に気づけないのか 逃れられないバイアスとの「共存」のために』より
これまで慣れ親しんだふるまいを変えるのは容易ではない。(略)とりわけ無意識の信念体系を変えるのは一筋縄ではいかないが、人との交流がもたらす「鏡」を通して自分のふるまいをよく観察すれば、それを変えることができる。
その行事自体に、排他的な意味合いは露ほどもなかった。それでもかなりの数の社員が、疎外感を覚えていたのである。(略)一部の人のみ受容し、残りには疎外感をあたえるような活動を無意識に行ってはいないだろうか?
『差別はたいてい悪意のない人がする 目に見えない排除に気づくための10章』より
私はどこに立って、どんな風景を見ているのか。私が立っている地面は傾いているのか、それとも水平なのか。
もし傾いているなら、私の位置はどのあたりなのか。この風景全体を眺めるためには、世の中から一歩外に出てみなければならない。それができないのなら、この世界がどのように傾いているのかを知るために、私と違う位置に立っている人と話しあってみなければならない。
私たちの社会はほんとうに平等なのか。私はまだ、私たちの社会がユートピアに到達したとは思えない。私たちはまだ、差別の存在を否定するのではなく、もっと差別を発見しなければならない時代を生きているのだ。