少子化問題について考える@『ははが生まれる』営みと環境に想いを巡らせながら…
日本社会で少子化が叫ばれるようになってから、20年以上が経つでしょうか。
その間、日本ではどのような少子化対策がされ、それは果たしてどのくらい機能したのでしょう…。
今月3日に発表された、2021年の人口動態統計(概数)によれば、生まれた子どもの数(出生数)は81万1604人で、6年連続で過去最少を更新したとされています(令和3年(2021)人口動態統計月報年計(概数)の概況|厚生労働省および昨年の出生数81万人、6年連続で最少更新…死亡数は戦後最多の144万人 : 読売新聞オンラインより)。
それによると、1人の女性が生涯に産む子どもの推計人数を示す「合計特殊出生率」も6年連続の低下となり、1・30だったことが発表され、少子化の問題は深刻さを増し続けています。
また、4月に行われた日本経団連による人口問題委員会では「日本の少子化対策はなぜ失敗したのか」という議題が話され、その概要がまとめられた記事が話題となりました。
記事・議題に関する内容(記事でわかる範囲)は概ね「まあ、そうだろう」とも思えるものでしたが、今後の少子化対策として上げられていたのは
収入が不安定な男性をどのように結婚までもっていくか、そのような男性と結婚しても大丈夫という女性をどう増やすかにかかっている
という内容でした。
私はその文言を目にした時に唖然としました。
論理の上では?確かにこのように言うことができるのかもしれませんが、その感覚を疑わずに、「こうした文言がまかり通る社会」であることこそが、少子化対策失敗の象徴であるように思うのは私だけでしょうか。
「こうした文言がまかり通る社会」というのは、「男性優位社会であることに無自覚で、「ははがうまれる」ことを軽視していることに気が付かないままの社会」と言い換えられると私は考えています。
この社会で子どもを授かること、子どもを出産すること、子どもを育てることというのがどういうことか。
こうした、人(特に女性)の営みを軽んじ(軽んじていることに無自覚であり)社会の歪みに目を向けないことー「収入が不安定である人をなくそう」という経済政策に関する発想や「どうしたらははがうまれやすくなるか」といった発想ではなく(男女共同参画の停滞と言いながら)「国民(特に女性)に必死にがんばらせて子どもを増やそうとする」発想しか出てこないことーにこそ、問題の本質があるのではないだろうかと私は思い、憤りを感じています。
こうした問題意識を前提に、この記事では精神科医である宮地尚子先生(以下、宮地先生)によるエッセイ集『ははがうまれる』をヒントに、上記したこの社会で「子どもを授かること、子どもを出産すること、子どもを育てること」といった営みに触れ、この社会で「ははがうまれる」とはどういうことなのかを考えてみたいと思います。
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なお、経済政策には触れないことと、そもそも子どものいない&男性である私がこのことを考えることから、どこかお門違い感や限界を書く前から感じていますが、これまでご相談いただいてきた女性の生きづらさを感じさせられる内容を引用させていただきながら書きたいと思います。
なお、「男性と女性」という風にここでは書かせていただいてしまっていますが、性は多様であり本来正しくない書き方になってしまっていることを予めお詫び申し上げます。
この社会で子どもを授かるということ
まずこの記事を書く前提として、この社会は男性優位社会であり、これまで男性が中心になって様々な「幸せ」ないし「ふつう」が定義され、形作られてきたと考えられることについて書いておきたいと思います。
だいぶ昔のようにも思えますが根深く残っているものとして上げれば、男は「社会に出たらいい会社に就職して出世し、稼ぐこと」こそが「幸せ」「ふつう」であり、女は「いい男と結婚して、専業主婦で家事育児に専念すること」が「幸せ」「ふつう」である、といったものがそれに当たるかと思います。
では、そもそも「結婚すること」は(特に女性にとって)「ふつう」なことで「幸せ」なことなのでしょうか。ここから考えてみたいと思います。
私が30代で独身であった頃、私は突然父親に「いい人はいないのか?」と言われたことがありました。
それは単純に「そういう人がいないか」を聞きたかっただけかもしれませんし、もしかしたら子どもの「幸せ」を願う気持ちからかけられた言葉だったかもしれません。
しかし当時の私には「いい年して結婚もしないでなにしてるんだ」「いつになったら結婚するんだ」というメッセージ(騒音)に聞こえました。
私の考え方が偏っているからかもしれませんが、父親の価値観や言動(言い方)、私との関係性から鑑みれば、そのように受け取れるものであり(その事情については書きませんが)今もその認識は変わっていません。
そう言われたときに私が率直に思ったのは、私から見ると父と母の結婚は全然うまくいっていない苦痛が伴うものであり(それがなければ私がいないということは理解していますが)それなのにどうして結婚を勧めるのだろう?ということでした。
私たちはなんのために結婚をするのか、結婚ってそもそもなんなのだろうかという疑問を抱かずにはいられませんでした。
ここで、私が以前にご相談いただいた内容(とその記事)を引用させていただこうと思います。
その内容は
「女の子は好きな人と結婚することが幸せだよね」と言われてもやっとした
という相談(お話)でした。
詳しくは記事にゆずりますが、相談をしてくださった方は女性であり、その方は独身時代に身近な人からこのような声掛けをされて疑問に思ったと言います。
上記したように、男性である私にも似たような経験はありましたが、こういう経験をされている人は特に女性に多いのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
当然のことですが、結婚したいと思う人が、結婚したいと思う人と愛し合えて結婚できれば、確かにそれは幸せなことと思います。そうした出会いを求める人が多いことも事実だろうと思います。
しかし、「女の子は」という主語になることや「結婚することが幸せ」と結論付けるところには、誰かによって勝手に作られた「女の幸せ」という刷り込みがあるように思われます。
あるいは、男性優位で構成されている社会において「女性が生き残る方法」という意味でそうした言葉が使われているようにも思い、違和感を抱きます。
宮地先生は『ははがうまれる』において、結婚がそもそも夫婦で同等なものではなかったことについて言及しています。たとえば、結婚後の女性の呼び名について以下のように綴ります。
「旦那」という言葉も歴史的には、金銭と権力のからむ「パトロン」に近い意味を持つということを知ってから、使うのを避けるようになった。
考えてみると、妻についての呼び名もあまりいい言葉がない。
(『パートナーの呼び方』より)
宮地先生が言うように、女性は結婚後に「嫁」「奥さま」「家内」「妻」などと呼ばれ、男性は「主人」「旦那」などと呼ばれることが多いかと思いますが、漢字や読み方を見るだけでも「主従」関係のようなものが見て取れるように思います。ひとつひとつの語源については省きますが、 少なくとも呼称だけを見れば、結婚後の力関係は明らかに男性優位とされてきたことがわかります。
女性のことを「かみさん」と呼び、目上の人を表す呼称もあるにはありますが、そこにはどこか「尻に敷かれる男像」が際立ったものであるように思われ、主役はあくまで男性というイメージではないでしょうか(私目線ですが)。
宮地先生は続けて
大切な関係なのにピッタリくる呼び方がないのはなぜだろう。夫婦が同等で個別の人間だという捉え方自体が、まだまだ新しいということか。(『パートナーの呼び方』より)
と綴っています。
結婚というものが「同等で個別の人間だと捉えられていない」時代があったのであれば、「結婚することが(女の)幸せ」であるわけはないと思います。
「時代が“あった”」と書きましたが、たとえば、選択的夫婦別姓制度が未だに実現していないことや、独身女性や女性のひとり親が経済的な面のみならず暮らしにくさを感じる社会であるといったことから見れば、今もそれは「ある」と言う方が正しいでしょう。
1995年に起きた阪神淡路大震災では、震災により配偶者を失った女性が「他のもっとお金を稼いでいる男と結婚すればよい」と言われることもあったことが報告されています(『災害時の女性と子どもに対する暴力とその対策』ウィメンズネット神戸 正井禮子氏による講演会より)。
20年以上が経っても、こうした考え方自体は今も根深く社会に蔓延しているのではないでしょうか。
こうして見てみると、この社会においてそもそも結婚するということは、「ふつう」で「幸せなこと」と「されてきた」あるいは「刷り込まれてきた」ものであり、男性優位社会を家族という単位に落とし込んだに過ぎないものと捉えられるように思います。
このことを理解すれば「結婚までもっていく」などと考えること自体が歪んだ考えであると言えるように思いますが、いかがでしょうか。
こうした刷り込みをされてきた社会においては、女性が「子どもをほしい」と思うことをも「ふつう」なこと、「幸せ」なこととして刷り込まれていてもおかしくないように思います(同性婚が実現していないあたりもこのことを前提に置いていることが透けて見られるように思います)。
上記の相談では、相談者の方が結婚した際に友人にかけられた言葉についても話されていたため、引用させていただきます。
私の結婚をお祝いしてくれたんですが、友達が「子どもが生まれたらお祝いするね」と言ってくれたことがありました。
そう言ってくれることは嬉しいことなんですけど、
私が子どもをほしいと思っていないかもしれないということは想像されなかったのかなと思いました。
お祝いの言葉をかけてくれることはもちろん嬉しいことでしょうし、その声かけは「結婚する」という中に「子どもを授かる可能性がある」と考えられることから「子どもが生まれたら」と言ったに過ぎなかったかもしれません。
ですが、そうだとたら「おふたりは子どもを望んでるでしょうか?」という一言があってもよいでしょう。それがなく、「結婚」→「子ども」と一直線になるのは「結婚する」=「子どもをほしいと思う」(ことが「ふつう」「幸せ」)という刷り込みが社会にあるということではないかと私は受け取りました。
さらには
「早めに結婚して子どもは2人産むのが女の幸せ」みたいなことをまわりから言われる窮屈さ
という話も相談内で聴かれ、これらはこの社会において女性がどれだけ「刷り込まれ」(刷り込みの影響を受け)、余計な「圧力」をかけられているかを思わされます。
こうした社会で、女性にとって「子どもをほしい」と思うことは果たして本当に「ふつう」なことであり、「幸せ」なことなのでしょうか。
当然のことですが「子どもを授かる」こと自体は「ふつう」のことではありません。
授かりたくても授かることができない、いわゆる不妊で悩まれている方は相当数いると言われており、2019年の総出生数のうち、14.3人に1人が体外受精で生まれていることが厚生労働省の統計(体外受精児、14人に1人 2019年は過去最多6万598人が誕生:朝日新聞デジタルより)で示されています。
「子どもを授かる」ことを「ふつう」なこととして押し付ける・軽視することはそれだけで誰かを追い詰め、傷つける行為であるという理解は必要と考えます。
一方で、上記の統計結果は、「子どもをほしい」と思う人が多いと思われることも示しているかもしれません。
不妊治療(中でも体外受精)は助成金の制度があるとはいえ、かなりの費用を負担して行うものであるため、「それでも子どもを授かりたい」人たちがいることを表しているとも言えるためです。
しかし、これもまた当然のことですが、「数が多い」ことは「ふつう」や「幸せ」を定義づけることにはなりません。さらに言えば、「数が多い」ということは「力がある」ということであり、「力がある」ということは「力のない」ものを外に追い出してしまう可能性があると言うことができます。
上記した「圧力」はこれに当たり、「力のある」中にいれば「圧力」はさほど感じずにいられるかもしれませんが、「力のない」中(「力のある」外)にいれば「圧力」によって追い出されてしまう、あるいは、追い出されないように必死に耐える(でも表には出さない)ことを強いられることになります。
「子どもをほしい」と思うことと同様に、「子どもをほしい」と思わないことも「ふつう」であり、それぞれに「個別の人間」としての「幸せ」があるという理解が社会に浸透しない限り、この社会で「子どもを授かること」にはなんらかの余計な苦痛を女性たちが感じかねないと言えるのではないでしょうか。
この社会で子どもを出産すること
続いて、「子どもを出産する」ということについて考えてみたいと思います。
これは男性にはできない体験として(授かることももちろんそうですが)、男性である以上「気付けない」「知ることができない」ことがある前提で考える必要があると私は思っています。
昨年、自民党の男性議員が妊娠7か月に相当するジャケットを着用して暮らしを体験したという
自民の30代議員が「妊婦体験」…2日間、妊娠7か月相当のおもり着け会合や家事 : 読売新聞オンライン
が話題になりました。
妊婦が日常生活で抱える苦労への理解を深めるのが狙いとされていましたが、こんなことで妊婦の苦労や大変さなど、わかるわけがありませんよね。
妊娠は身体の内部で起こっていることであり、重さだけで想像が及ぶものなどでは決してないことは明らかなのですが(周囲からの目線など環境面などなども含めて圧倒的に異なる)、男性たちにはその想像が及ばないのです。男性である以上「気付けない」「知ることができない」ということを(残念なかたちですが)よく表しているなと思います(自戒も込めてです)。
以前、私は以下のような相談をいただいたことがあり、「男性であること」を自覚しないことによる暴力性を感じることがありました。
その相談というのは、ある会社から届いた郵便物(広告)の内容が、女性からすると大変怖いものであったというお話であり、モラハラ・虐待を想起させる言動を男性が当たり前かのように使っているというものでした。
記事にあるように、その広告はおそらく男性が男性(というよりも「おじさん」ですね)だけで集まって作られたものであり、女性のチェックが入らなかったのであろうと思います。
仮に女性のチェックが入っていたとしても、男性優位社会の中に溶け込んだ女性か、あまりに力の差が歴然であることで「声を上げられなかった」ということではないかと私は想像しています。
このお話をお聞きして私は、私たち男性には「気付けないことがある」というある種の「弱さ」(=「男らしさ」と相反するもの)を自覚し共有する必要があると強く思わされました。
それが自覚・共有されていないがために、女性が「子どもを出産する」→「ジャケットを着て理解につなげよう」という発想となるのではないかと考えています。その無自覚さに思いが至らないときに、誰かを傷つけてしまうことがあるのだと考えます。
では、「気付けない」「知ることができない」前提においては、私たちには何が求められるのでしょうか。
まずその自覚をすることは先に書いた通りですが、「気持ちの理解」に努めるだけではなく「起こりうる苦痛についての理解と緩和」に努めることが大事なのではないかと私は考えます。
たとえば、宮地先生は「子どもの出産」について、以下のように綴ります。
今までいなかった子どもの「出現」。その子どもが存在し続け、二十四時間、自分がその主たる責任者になるということ。自分だってまだまだ子どもで、世話をしてもらいたい側なのに、赤ん坊の世話ができるはずだとみなされること。そのことに驚き、とまどっている彼女がいる。とまどいながらも、少しずつその役割になじんでいく。(『母がうまれる』より)
「子どもの出産」には、妊婦としての生活の大変さや出産に伴う痛みなどがありますが、「大変さ」や「痛み」は残念ながら「理解」できませんし「代わってあげること」はできません。しかし、宮地先生の言う「子どもの主たる責任者」になることはできますし、「赤ん坊の世話ができるはずだとみなさない」(そういう苦痛が起こりうるという理解と緩和)で、「とまどいながら自分がその役割(父として)になじもう」とすることはできるはずです。
そのためには、「気持ちの理解」だけでなく、「社会の制度を変える」ことーたとえば産休育休を男性は必ず取得するとか、父親あるいは地域で子育てをするための研修を長時間労働の代わりに受講する義務を課すとかーも必要であり、そうした整備がされることが「気付けない」「知ることができない」分断の緩衝材となるのではないかと考えます。
しかし、この社会ではまだまだこうしたことが進んでいないのは明らかです。それはどんなメッセージを「はは」に送っていることになるでしょうか。
宮地先生は「子どもを出産する」ということについて、「はは」たちに語るかのようにこう綴っています。
だいじょうぶだよ。焦って、先々のことを心配したりしなくていいんだよ。ただそのままゆったりしていれば、それが一番赤ちゃんにいいんだよ。妊娠・出産という大きな仕事を果たすんだから、自分に優しくしてあげてね。子育てが不安かもしれないけど、周りの人の助けをたくさん借りて、みんなで育てていけばいいんだよ。
それらはきっと私自身が、言ってほしかったメッセージであり、また言ってもらってきたメッセージなのだろうと思う。(『身ごもる』より)
宮地先生は「言ってもらってきた」言葉であると振り返っていますが、今の社会―男性たち―は「子どもの出産」に対して、こうしたメッセージをかけられているでしょうか。
それよりかは、残念ながら「圧力」のメッセージで溢れてしまっているように私は思います。
宮地先生はこのようにも綴っています。
子育てしにくい世の中だなあと思う。少子化もあって、一人赤ちゃんが生まれると、親族友人がこぞって注目する。みんな親切のつもりで声をかけているのだろうが、それが母親にとってどれほどプレッシャーになることか。これからも、どんな離乳食を食べさせるのかとか、いつからトイレット・トレーニングを始めるのかのか、いろいろ言われるのだろうか。そのたびに、人生の一大事、それで子どもがどうにかなってしまうような危機感をあおられるのだろうか(『母乳とミルク』より)。
この社会で「子どもを出産する」において「はは」たちは、「結婚」や「子どもを授かる」前から多くの「圧力」(宮地先生の言う危機感)にさらされ続けているのではないかと思います。
この「圧力」をなくしていくことができるのは誰なのかー無論「気付けない」「知ることができない」側にいる人たちーということがもっと考えられなければならないと私は思います。
この社会で子どもを育てること
結婚すること、子どもを授かること、子どもを出産すること。
この社会ではこれらすべてに軽視や「圧力」がかかっており、男女の間にアンバランスな力関係が生じていることを見てきました。
そのことに気づき是正していかない限り、「はは」はうまれにくく、「はは」が追い込まれ続ける可能性が社会構造としてあることが共有できたように思います。
では、この社会で「子どもを育てる」ということはどういうことなのかについて、考えてみたいと思います。
ここでも、以前いただいたある相談から考えてみたいと思います。
結婚をして家づくりを考えていた方が住宅メーカーの方とやり取りをする中で家事の話をしているときに、「奥様」目線で話をされることが多かったという話がされました。
家事は「奥様」がやるものという前提で話が進められ、もやもやとしたと言います。
このお話は「子育て」ではなく「家事」の話ですが、「家事」は「女性がするもの」という刷り込みがこの社会にはあるということ、そして、そのことによって窮屈な思いをする女性たちがいることが表されたお話であるように思いました。
「家事」は本来、生活している人がするもので、男性であろうと、女性であろうと、そこに性は関係ないはずですよね。それなのに、なぜか「女性がするもの」とされているのが日本社会であるように思います。
かく言う私も、実家を出るまではお風呂掃除くらいしか「家事」をしたことはなく、また、父親が「家事」をしている姿をほぼ見たことがありませんでした。
ひとり暮らしをするようになってはじめて、自分の「家事」のできなさを突きつけられ、ひどく情けなく思ったことを覚えています。
私の「家事」のできなさを知ったある人は、その私を見て「「家事」ができるように」ではなく「誰かいい人いないのか」と周りに言っていたという話を聞いたこともあり、そのこともまた「家事」は「女性がするもの」という価値観が社会に根深く刷り込まれているものであると痛感する経験でした。
残念ながら書くまでもなく、「子育て」に関しても同じような価値観が社会に根深く刷り込まれていると思われますが、いかがでしょうか。
そうした社会において「子どもを育てる」ということはどのようなことなのでしょう。
こうしたことについて考えるうえでは、男性の育休取得率の低さや経済格差、「子育て」に関わるジェンダーバランス(ギャップ)などについて触れ、その根深さを数値化するなどしていって、実態と共に「危うさ」を示していく方が相応しいかと思いますが、そうではなく(そういった記述が多いこと、また私はこのあたり苦手なのもあります…)、ここでは「子どもを育てる」という営みから、その「危うさ」について書いていきたいと思います。
宮地先生は「子どもを育てる」ということについて、以下のように綴ります。
新しく生まれた子ども同様、新しく生まれた母も、育てられる必要がある。母になり、母をするという初めての経験を日々こなしていくためには、一緒に子どもの面倒を見ながらお手本を見せてくれる人、周りのサポートや優しいアドバイスが欠かせない。
それに、二十四時間、大切な命の責任者であることは、とても大変である。共同責任者の存在がなければどれほど心細いことか。パートナーに限らず、いろんな人と一緒に子どもを育てることで、周囲の人たちも、「母」として育っていく(『母が生まれる』より)
『ははがうまれる』という視点で書かれたエッセイのため、ここでは「母」が育てられる必要性があると書かれていますが、当然ながらここには「父」も当てはまります。
「子どもを育てる」ということは、「大人」も同様に育ち「親になる」必要があるものであり、サポートや誰かの力を必要とし「大切な命の責任者になる」といった大変な営みです。
このように、「子どもを育てる」という営みを見てみると「子育て」は「女性がするもの」とされていることは大変「危うい」ことであるとわかるように思います。
なぜなら、「子育て」は「女性がするもの」とされているならば、「母」は「育つ」のではなく「もうすでに育っているもの」とされ、「父が育つ」といった発想も出てこないことになるためです。それは「大切な命の責任者」になるにも関わらず、それ相応の経験や知識は特に必要ではない、あるいは、その習得は簡単なものであるという発想だと言えるでしょう。
会社では「責任者」になるために相応の経験や知識が必要であるということは理解・共有されているはずですから、このことがどれほど「危うい」発想かは容易に理解できるはずです(働いている人の方がわかるはずです)。
「子育て」は「女性がするもの」とされる社会は、母親たちを追い詰めます。
宮地先生は飛行機でトラブルが起こったときの酸素マスクの例を使って、母親の困難さを綴っています。
世の中に広まっている子育て指導が子どもに酸素マスクをつけることばかりを強調し、母親が酸素マスクを先につけたりしたら自己中心的と批判するようなものが多いからだ。それどころか、母親にも酸素マスクが必要なことが忘れられていて、母親のためのマスクなんて用意されていないようなことも多いと思うからだ。
子どもに何かトラブルが起きたとき、「母親は何をしていたのか」「どんな育て方をしていたのか」と、母親が責められることは非常に多い。子どもにトラブルが起きたら、親だって気が動転し、不安や恐怖に襲われるから、そういうときに必要なのは周囲からの気遣いの言葉や精神的サポートである。なのに、現実に与えられるのは批判的なまなざしだけ。かつ、その後のケアや後始末は、当然のように母親におしつけられる。(中略)大半の母親はそんなとき、心細くて、自分自身が折れてしまいそうに感じるのではないだろうか。
この社会は確かに「母親が酸素マスクをつけること」をよしとする社会になっていないように思います。「子育て」ないし「大切な命の責任者」は「女性(母親)」であり、「女性(母親)ができて当たり前のもの」とされていれば、それはある意味当然なのかもしれません。
宮地先生はそう思う(勘違いする)風潮を「驕り」として批判します。
人生も、人間も、そもそもリスキーなものである。だとすれば、そのリスクに耐えながら日々を生きていること、しかも他の人間とかかわり合いながら生きているということは、きっとすごいことなのだ。その代表格が、子育てという経験であり、しかも子育ては、「文明の進歩の伝達」という作業の代表格でもある。
親も初心者、子どもも初心者。
上手にできて当たり前、なんて思っているとしたら、それは人生への、人間としての驕り以外のなにものでもない。(『人生のリスク管理』)
私たち―特に「子育て」は「女性がするもの」と思っている男性たち―は、この「驕り」に気が付かないといけないのだろうと思います。「驕り」に気が付くことができれば、学ぼうとするはずです。学ぼうとすることができれば、知識と経験を積極的に得ることができます。それは確実に「女性」だけでなく、「子ども」も「男性」も、全ての人を支えることになります。
たとえば、宮地先生が綴る「知識」の一例を載せてみたいと思います。
人間を含めた脊椎動物は、低い周波数の音を危険なものと感じ取る(ライオンの唸り声)。高周波数の泣き声や叫び声は、誰かが危険に曝されて、傷を負ったり、痛みや恐怖のさなかにいる、そして助けを求めている可能性を想像させ、緊急の気遣いや警戒を呼び起こすのだという。そして、ほかに向けられていた注意が、その個体に引き寄せられるようになっているのだという。
電車などで、近くの席の赤ちゃんが泣き出すと、気にしないつもりでも気になってしまうのは、動物としての人間がそのようにできているからなのだ。(略)脳の中の警戒システムがどうしても作動してしまい、落ち着かなくなるわけだ。早く泣き止んでほしいと思うのも、保護者に早く泣き止ませてほしいと願うのも、自然な反応というわけだ。
赤ちゃんの泣き声にイライラするということは、女性の場合、特に言いにくい。それだけで優しくない、女らしくないと受け止められやすいからだ。
一方、子育て中の親にとっては、公共の場、しかもすぐに外に出られない室内や車内などで、子どもに泣き出されると困ってしまう。あやしてもなかなか泣き止まないとき、周囲のイライラや、早くどうにかしろという視線は、さらに大きなストレスになる。
ここで気づいておいたほうがいいのは、養育者にとっても赤ちゃんの泣き声はストレスであり、その上、周囲からもストレスを受けているという事実である。うまく泣き止ませられれば、親としての自己効力感も得られるし、周囲にも承認してもらえる。でも、泣き止んでくれないと、自分への無力感、焦り、子どもへの苛立ちが募っていく。周囲からの厳しい目に、身の置き所がなくなり、よけいに赤ちゃんが何を求めているのかを察知する余裕を失って、悪循環になることもある。そういうとき、赤ちゃんをあやすのを手伝ってくれる人がいることや、周囲から温かい目で見てもらえることは、養育者にとって大きな救いになる、
誰にとっても、赤ちゃんの泣き声は心地よいものではない。そのことを知っておくだけで、みんな少し楽になるかもしれない。その上で、自分も含めみんな、かつては泣きわめいたり、なかなか泣き止まない赤ちゃんであったことを思い出せば、よりサポーティブな子育て環境ができていくかもしれない。
(『赤ちゃんの泣き声』より)
赤ちゃんは、喉が渇いていても、おなかがすいていても、暑くても、寒くても、どこかが痛くても、疲れて眠くても、それらをすべて泣いて示すしかない。
自分ではニーズを満たせなくて、ニーズの内容を正しくわかってもらえるかどうかは相手しだいだからだ。しかもニーズの強さを相手に適切に評価してもらえるとは限らない。
泣きわめく子どもには、おそらくちゃんと理由がある。そのことが認められただけで、子どもも安心するに違いない。(『痛みと涙』より)
いかがでしょうか。
このように、赤ちゃんの泣き声が人にとって不快を与える理由、赤ちゃんの「泣いて示すしかない」困難さを知るだけでも、母にも子にも自分にも優しくでき、共に戸惑うことができるのではないだろうかと私は思います。
この社会で「子どもを育てる」ことにも大きな傾きがあり、そこにある驕りを見つめ直すことこそ、「ははがうまれやすく」なる社会にするために必要なことなのではないでしょうか。
この社会で「ははがうまれる」困難さを前に
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
はじめに書いた通り、この記事は経済的な政策などについて全く触れておらず、さらに子どものいない&男性である私が書いている時点でお門違い感と限界のあるものです(私の文章能力のなさも相まって)。
タイトルにある「少子化問題」を強く打ち出して書いているわけでもなく、結果、「ははがうまれる」という営みを通じて、この社会がいかに傾いているかという内容の記事になっているなと…ここまで書いて改めて思っています。
それでも私がこの記事を書きたいと思ったのは、宮地先生のメッセージがとても大切なものであると思ったことはもちろんですが、「はは」になることなど、私にはわかるわけがないから書かないといけないということでした。
「わかるわけがない」ということは「わからないでいる」状態(特権)を放置していていいということにはなりません。
私は子どものいない&男性ですが、これまで触れてきたように、女性の被っている問題をこれまでいくつかお聞きしてきました。
そうした話に私のできる範囲で耳を澄ませてきて思うのは、無関係と思う問題は、無関係と思っている人たちの意識が変わらない限り何も変わらないだろうということです。
お話を聞かせてもらうことで、私にとってそれは無関係の問題ではなくなりました。
「女性のあるべき姿」を押し付けているのは誰なのか。
早く結婚することや子どもをほしいと思うことを女性に求めているのは誰なのか。
男性優位社会にしているのは誰なのか。
などなど、そういうことを考えざるを得なくなり、その「誰」の多くは、被害を訴える側ではなく、無関係と思い軽視している側にあると感じるようになりました。無論、そこに私も入っていることに気づかされました。
宮地先生は「子育て」を不安に思う「はは」にこう言います。
「三歳までは母親の手元で育てよう」という三歳児神話は、否定されているらしいのだが、私も気になった。
母親の手元で育てられるほうがいいという実証的なデータは見つからなかった。むしろ、保育所育ちの子どもたちのほうが、わずかだが社交性などが高いといった調査結果も出ていた。保育所育ちかどうかより、養育の質によるという当たり前の結論だった。
働くお母さんたちへ。子どもを預かってくれる人たちを信じて、仕事に打ち込んでください。(『握手でバイバイ』より)
この言葉は、言いたいけど、男性である私にはまだ言いにくい言葉です。そう言う前に「仕事に打ち込める」環境を作るべき側にいると思うからです。
しかし、環境を変えながらも、言っていかないといけないとも思うようになっています。
なぜなら、
親の目から見ると、スピードの出る自転車に乗っている子どもは危なっかしくてたまらない。でも、子どもは親の願う以上のスピードで、どんどん世界を広げていく。
最初は安心感を与えてくれる補助輪。いつの間にか必要がなくなっている補助輪。必要がなくなったら、邪魔っけにさえなる補助輪。親の役割もそんなものかもしれない、と思ったりする。必要がなくなるほうが、子どもは遠くまで行ける。(『三輪車から自転車へ』より)
からです。時間はあっという間だからです。
安心して子どもが遠くまで行ける社会に、安心して働きたい女性が働けるように、安心して泣きたい男性が泣けるようにしたい。
この社会で「ははがうまれる」ことにある困難さ・傾きを理解することから(では遅すぎますが)できることをしていかなければならないと思います。
「ははがうまれやすい」社会はきっと誰もが「生きやすい」社会でもあり、「ははがうまれやすい」社会でないことは、多くの社会問題の根底に通じるものがあるのではないかと考えます。少しでも「はは」になりたい人たちが「はは」になりやすいようにできることをしていきたいです。