パレスチナについて語り続ける『ガザに地下鉄が走る日』読書会③
『ガザに地下鉄が走る日』、第三回(第三章)の読書会を行いました。
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まとめるまでに時間がかかってしまっており、この記事を書き始めたときは、イスラエルとハマスの間にようやく停戦が合意されたときでした。その時に「それがどこまで履行されるかは不明で予断を許さない」と書いていたのですが、、昨日、イスラエルが再び爆撃をはじめるニュースが飛び込んできてしまい、強い憤りと辛さを覚えています。。アメリカのトランプが「ガザのリゾート化」などとあまりにも狂った動画を流していたことを含め、頭がおかしくなりそうな日々ですが、パレスチナについて語っていたい…と思います。
私なりの要約ー実際に本を手を取ってみてもらえればーと、内容や読書会をしていての感想などを書いていきたいと思います。パレスチナが自由になることを願って。
※要約は常体を基本とし、私の感想その他は敬体を基本としたいと思います。
第三章『ノーマンの骨』の(私なりの)要約
著者の岡真理(以下、岡)が愛用する「北米」で作られたパレスチナ連帯カレンダーには、パレスチナの歴史が記されている。そこには、教科書には載らない「集団虐殺」の歴史が綴られているものの、それでもすべての虐殺の歴史は網羅できていないと言う。それほどの虐殺の歴史がパレスチナにあるということ、その意味についてこの章は言及している。
パレスチナはかつて、信仰の違いの中で歴史的に「共生」をしてきた地であった。岡は、エルサレムは
アラブ・イスラーム世界における、この歴史的共生のシンボルにほかならない
としている。しかし、その地で起こったのが「近代におけるシオニズムによる侵略」であり、イスラエル国家の建設によって、これまでの歴史は破壊されてしまった。その暴力について、1990年1月にスペインのアンダルシアにいた岡は「ヨーロッパ」の歴史に思いを巡らせながら振り返る。
ヨーロッパにあるイベリア半島は、ヨーロッパ・キリスト教徒による再征服(レコンキスタ)が完了するまでの800年間にわたって、アラブ・イスラーム世界であった。しかし、再征服後、その地に住むユダヤ教徒やイスラーム教徒に待ち受けていたのは
キリスト教以外の信仰を持つ者たちが自分たちとともに同じ土地を故郷として暮らすことを許さない
といったキリスト教への改宗か追放の二者択一だったと言う。
「信仰」を理由にまかり通る暴力。
この同じ暴力ー民族浄化の暴力ーが、五〇〇年後、再びヨーロッパで繰り返される
こととなった歴史、すなわち、ナチスによるユダヤ人虐殺の歴史については、まだ記憶に新しいと言えるだろう。
「信仰」の違いでまかり通る暴力は、近代となってからは「人種」や「血」の違いといった理由へとすり替えられていき、虐殺という最悪の形で表出してしまった。そして、それは省みられることなく、ナチスによる強制収容所から解放された3年後にもまた同じ暴力が繰り返された歴史がある。75万人のパレスチナ人が家を追われ難民となった1948年5月15日に起こったナクバは、教科書にも、先のパレスチナ連帯カレンダーにも記されているが、あまり語られてきていない。
ナクバの代名詞とされているのが「デイル・ヤーシーン」である。デイル・ヤーシーンという村が極右のユダヤ民兵組織によって襲われたことで集団虐殺が起こり、それがナクバの悲劇の象徴とされてきた。しかし、
デイル・ヤーシーンと同規模ないしはそれを上回る集団虐殺が、パレスチナの各地で複数、起きていたことが今では明らかになっている。小規模の虐殺を含めれば、その数は何十にも及ぶ
と岡は指摘し、「平和のためのユダヤ人の声(JVP)」というNGO団体によって作成された「ナクバ・ファクトシート」では
デイル・ヤーシーン、タントゥーラ、ダワーイメ、サフサーフの虐殺事件は、[ナクバにおいてパレスチナで]生じた、数多くの同じような暴虐事件の一部に過ぎない。
と記されていることを紹介する。
では、なぜデイル・ヤーシーンの名前だけが象徴とされ、記憶されるようになったのか。デイル・ヤーシーンよりも犠牲者の数が遥かに上回るダワーイメやタントゥーラの名はなぜ忘却されてきたのか。その理由のひとつとして考えられているのは、デイル・ヤーシーンの虐殺だけは
シオニスト指導部および虐殺実行者ら自身によって積極的に語られたためだ
と言う。
通常、虐殺を行った場合、虐殺実行者らはその出来事を隠したり否定したりするものだ。それにもかかわらずデイル・ヤーシーンのことを虐殺実行者らは積極的に語り、かつ、犠牲者の数を実際よりも多くして語ってきた。これは
であり、
のだと、イラン・パペの『パレスチナの民族浄化』を参照しながら、岡は言う。
また、デイル・ヤーシーンはイスラエル国家建国前に、民兵組織によって実行されたため、それが語られることとなった理由だとも岡はしている。タントゥーラ、ダワーイメ、サフサーフでの集団虐殺は、建国後、かつ、国防軍による集団虐殺であり、徹底的に隠蔽されたことがその証拠だと考えられる。
タントゥーラで起こった集団虐殺、その隠蔽の様子がこの章では短くも詳細に綴られており、同時に、それは韓国のナクバとも呼ぶべき済州島での四・三事件と重ねられている。パレスチナで起こった集団虐殺でも、済州島でも”埋められた者たち”がいて、それは文字通り記憶からも葬り去られるといった暴力だと言える。その暴力は「ごく私的な記憶」とされるしかないが、その私的な記憶すら、生きるために忘却されてきたのかもしれないと岡は言う。
こうした暴力が起こり続けることを、岡はイラン・パペの「漸進的ジェノサイド」という概念を用い、進行し続ける「終わらぬナクバ」だとしている。そしてそれはパレスチナだけのことではなく、日本での朝鮮人虐殺、韓国の済州島で起こった事件など、「非人間化」することのできる政治的装置の存在を意味するのだと指摘している。
他者を非人間化することを教え込むことができる
このことを私たちは学ばなければならず、非人間化された犠牲者の亡骸・骨の砕ける音が聞こえないかと問い、この章を終える。
第三章を読んで感じたこと・印象に残っていること
この章を読んで、パレスチナの虐殺の歴史をいかに知らなかったか…と深い反省の念が湧いていました。ナチスによるユダヤ人虐殺の歴史には強い関心があったにも関わらず、パレスチナに目が向かないでいたことは、「ヨーロッパ」中心主義の世界にどっぷり浸かってしまっている(批判的に見てきたにもかかわらず)自分の存在を突きつけられたような気がしています。それを証拠に私はシオニズムによる侵略の歴史や、ナチスが「信仰」から「人種」・「血」の問題に"すり替えてきた”歴史を深く考えることができていませんでした。
昨年10月に行われた岡真理さんによる講演会『ガザが明らかにしたもの』では
パレスチナの悲劇は国際社会が種をまいたもの(それを伝えないが)
西洋の人文学が普遍的な知だという西洋中心主義という虚妄に侵されている。
と話されていました。
ヨーロッパキリスト教社会において、ユダヤ教徒は「イエスが神」であるという絶対的なものを受け入れないとして「救世主殺し」といった汚名をきせられてきたなどの差別の歴史。
隣の人がたまたま信仰の違うユダヤ教徒というだけの話にもかかわらず、ヨーロッパではそれを人間の種類が別だとし、ナチスに繋がっていった歴史。
そして、その虐殺の解決をパレスチナ人を犠牲にすることで実行しようとし、その不正が今日まで続いていること…。
その上で、岡さんは
ホロコーストはなぜそれが起きたかを問い、知ることを推奨するのに、パレスチナで起きることを知ろうとすると反ユダヤ主義だと言論を封じるのがイスラエルだけでなくアメリカやヨーロッパで起きている
と指摘しました。
私がこれらのことをなぜ詳しく知らずにいたのか、パレスチナのことを知ろうともしてこなかったのか…と、今もその問いは私の頭の中にあります。
また、章の要約では触れませんでしたが、この章では「ユダヤ人虐殺の歴史を体験した犠牲者であるにもかかわらず、なぜユダヤ人はパレスチナ人を虐殺するのか?」といった問いが偽善的であることについても触れられていました。私も実際そのように思ってしまうことがあったのですが(トラウマの再演という見方ができるだろうか…などと考えてしまいつつ)上記した
他者を非人間化することを教え込むことができる
という恐ろしい政治的装置の存在を私は見ないでこられたのだな…と感じています。
『偶然性・アイロニー・連帯』の著者であるローティは、「言葉によって社会や人間の認識を変えてしまうことを意識すべき」としました(100分de名著より)。その理由は言葉が虐殺につながってしまう歴史があったからであり、ルワンダにおいて「ゴキブリ」という言葉がジェノサイドにつながった歴史を説明します。
簡単に書くと、ルワンダ独立後の30年間でジェノサイドに至らせるには言語環境の変化があったと言われており、3つの段階があったとされています。
第一段階は言葉を与え、ベルギーが「ツチ」と「フツ」といったように人々を線引きして統治したことで、「ツチ」と「フツ」とされた人々が自身らの違いを認識するようになる。第二段階は言語内での推論や言い換えとして、「ツチ」は「ゴキブリ」だというプロパガンダを生む。そして、第三段階として「ゴキブリ」は駆除すべきという通念のもとに、行動を呼びかけ正当化する、といったものとされています。その結果、三ヶ月で80〜100万もの命が奪われる虐殺が起こってしまいました。。
番組のナビゲーターであった朱喜哲氏は
「理性があるのが人間だ、そうでない家畜は殺してもよい」と同じで、人間に本質があるなら自分と同じ本質を持っていない相手は人間ではないと線引きができてしまう。誰もが人権があるとしていても人間でないものには人権がないとできてしまう。人権は紛争の抑止などにはつながらずむしろ残虐な行為に(なりうる)
と説明していました。これはまさにパレスチナの人たちが「ノーマン」とされてきたことであり、その暴力がずっと続いていることと同じだと言えるように思います。
他者を非人間化することが私たちにはできてしまうことをきちんと理解する必要があるのだろうと感じ、反対に、それを止める装置とは何があり得るのであろうか…と頭を悩ませます。今の社会・世界は明らかに、止める装置よりも非人間化する装置の方が機能していしまっていると思えてならず、恐ろしく思うばかりです。
こうした暴力の歴史は、決して日常から遠い話ではなく、すぐ隣りにあり、地続きであることー西洋中心主義が内面化されていることをはじめーも改めて感じました。
デイル・ヤーシーンでのことは、殺すよりも脅す方が費用対効果がいいという発想からの「見せしめ」であり、一方で、隠すべきは隠す醜悪さが見られます。これは、コスパ・タイパの文脈から、働く人をじわじわと切り捨てる行為とさほど遠くなく、自身が利益を得るための"見せ方(魅せ方)”なるものとも遠くないのではないかと正直私は感じてしまいます。
この社会・世界で生きていくためには効率的・合理的に考え、利益を得る必要があることはその通りだと思いますが、そのあり方自体がどこを中心として作られたあり方なのかを改めて考えないといけないような気が私はします。その(苦しい)中で自分(たち)だけがなんらかの利益を得られるシステムについて、根本から疑わないといけないのではないでしょうか。それが止める装置へとつながっていかないだろうかとも少し思います。
読書会中に、国家という概念がなかった頃、つまりある意味ではすべての人が「ノーマン」であった頃はどういう世界だったのかと考えたりもしました。その頃の実際は暴力で溢れていたかもしれませんし、それが理想というわけでも、そこに戻れるのがいいというわけでも全くありませんが(それは結局合理性の話になってしまうようにも思います)違う世界のあり方を考えてもいいのではないかと私は思います。せめて、違う世界のあり方を「劣っている」としてきた歴史を省みる必要があるのではないかと思うのです。「歴史から学ぶ」などといった言葉があまりにも薄っぺらく思えてしまうほど、パレスチナでは特に悲劇が起こり続けてきてしまっていますが、根本にある問題・歴史を中央から外れた違う視点から学ばないといけないのではないかと私は感じます。
最後に、"埋められた者たち”の話から、私はやはり震災のことを考えてしまいました。自然災害と虐殺とでは全く話が異なりますが、人が存在していた場を人為的に埋めてしまうこと、なかったことにしてしまう復興とはいったいなんなのだろうかと改めて思うのです。「ここに私の家があった」という語りに触れられなければ、骨の砕ける音と近い音を、私は全く感じられなかっただろうと思います。
水木しげるの『総員玉砕せよ!』では、フィクションの部分があるとされながらも戦場で死ぬ兵士が
「ああ、みんなこんな気持ちで死んで行ったんだなあ。誰にみられることもなく、誰に語ることもできず・・・ただわすれ去られるだけ・・・」
と語って息絶えるシーンがあります。そうして葬り去られた人たちがどれだけいるのか、なぜそういう死が大量にある世界なのか、と考えずにはいられません。
あまりにも無力ですが、それらを問い、パレスチナで今も起こり続けている暴力について考え、できる限りの抵抗をしていたいと改めて思うばかりです。
パレスチナについて語り続ける『ガザに地下鉄が走る日』読書会②
出張や体調不良など様々あり、なかなか更新ができていませんでしたが(3ヶ月ほど前になるかなと…)『ガザに地下鉄が走る日』、第二回(第二章)の読書会を行いました。
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イスラエルによるジェノサイドから1年以上が経ってしまった中で、無力であっても、パレスチナについて語っていたいと改めて思います。
私なりの要約ー実際に本を手を取ってみてもらえればーと、内容や読書会をしていての感想などを書いていきたいと思います。パレスチナが自由になることを願って。
※要約は常体を基本とし、私の感想その他は敬体を基本としたいと思います。
第ニ章『太陽の男たち』の(私なりの)要約
著者である岡真理(以下、岡)がかつてモロッコ大使館で勤務していた頃、そしてその2年半前にジブラルタル海峡にいたという話から、この章ははじまる。
岡はモロッコ大使館で勤務していた時、唯一のアラビストであったことからモロッコの新聞に日々目を通すことを仕事の一つとしていた。しかし、そこにあるのは国王であるハサン2世を称える「大仰な形容詞やタイトル」ばかりであり、それは新聞だけではなくテレビも同じといった状況だったと言う。
まっとうなジャーナリズムが存在しないのは、表現の自由が存在しないためであり、「独裁」の証である
独裁体制やジャーナリズムが不在であることが当たり前のようになっていたモロッコ。そのことを批判するジョークとして、あるモロッコ人は新聞を買う理由を
クロスワードパズルをするためさ
と言い、熱心に新聞を読んでいたのは自分くらいだったかもしれないと岡は振り返る。
ただ、毎日のように新聞を読んでいると、「時折、モロッコ北部の地中海岸、あるいは大西洋岸の浜辺に溺死体が打ち上げられているのが発見されたという記事を」見つけることがあったと言う。この背景には国に未来を見出せないモロッコの若者によるスペイン密航があり、岡はその「国境のはざまで命を落とす若者たち」を新聞越しに見て
ああ「太陽の男たち」だ、と思った
と述べている。
『太陽の男たち』が自身も難民であったガッサーン・カナファーニーによる小説であることを岡が記すのは少し後の話となる。その前に語られたのはフランスのアーティストであるクリスチャン・ボルタンスキーであった。
ボルタンスキーはホロコーストを生き延びた父親を持ち、収容所から生還した両親の友人たちから話を聞いて育った人物だ。生還者による話のトラウマと同時に、自身に「ユダヤ人の血が流れる」ことから「世界そのものに対する実存的不安」を抱えていた人物でもあり、そのことは、「生と死」や「記憶」を常にテーマとするボルタンスキーのアートの根源となっていると言う。
岡はボルタンスキーの作品である「ノーマンズランド」の様子を鮮明に綴り、ホロコースト・ミュージアムにあるこの作品を「強制収容所のメタファー」だとしている(ボルタンスキーがそのように言ったのかもしれないが、私にはこのあたりを正確には読み取れなかった)。
「ノーマンズランド」という作品名は
強制収容所が、そこにおいて人間が、人間であることの一切の意味を剥ぎとられ、ただの数字に、人間ならざるもの(ノーマン)に還元されてしまう場
であるがゆえに付けられた。それは
国民国家から放逐された人間が、その存在から国民/市民であること、社会のなかで何者かであることを剥ぎとられ、人間以外の何ものでもない、ただ人間でしかない存在、ただ生きている命、剥き出しの生に還元されて法外の存在となる、そのようなトポスである
といった点で、「国境の緩衝地帯」と同じものだとも岡は言う。
収容所/キャンプなるものと、砂漠の辺獄=国境の緩衝地帯・狭間であるノーマンズランドとは本質的に同じであるともし、『太陽の男たち』においてガッサーン・カナファーニーが
難民キャンプで呻吟するパレスチナ人の政治的生き延びの問題を、イラク・クウェイト国境のノーマンズランドを舞台に描いたのは、けだし当然のことであった
と述べている。
『太陽の男たち』は3人のパレスチナ難民の男たちーナクバによって故郷を追われ、10年が経つ時期にーが、クウェイト入国を目指し、そこに人生を託す物語である(以下、ネタバレがありますのでご注意を)。彼らは
パスポートもヴィザもない難民たちは密入国するしかない
という状況を前に、国を行き来する給水トラックのタンクの中で身を潜める手段を得る。しかし、そこで窒息死してしまうといった悲劇的な結末を迎えることになる。
その結末に見られるのは「地獄の竈」とも言えるタンクの中にいるパレスチナ人と、「エアコンの効いた快適な事務所」にいる役人や富豪の姿というあまりにもかけ離れた光景だ。
第二章の冒頭で触れた2年半前にジブラルタル海峡にいたときに岡が見た光景。同じもののはずのそれが一様に同じものとはなりえないこと。「国境など存在しないかのように」行き来できるものと「窒息死」するものとがいる現実がそこに表されている。
『太陽の男たち』は、そうしたパレスチナ難民たちの「非業の死」を描きだしていると言えるが、岡は『太陽の男たち』にカナファーニーが込めた思いとは作品の最後のセリフにあると言う。そのセリフというのは
なぜおまえたちはタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜタンクの壁を叩かなかったんだ。なぜだ。なぜだ。なぜだ。
であり、繰り返される「なぜ」という問いには、カナファーニーの叫びと世界の忘却とがあるとしている。
『太陽の男たち』は後に『欺かれし者たち』というタイトルで映画化された。小説と映画では一部内容が異なるようだが、それはパレスチナ難民が「テロリスト」と呼ばれるようになるなどした歴史的変化が反映されたからと言える。
そうした変化は、カナファーニーの「なぜ」という叫びに応えるように、パレスチナ難民の第二世代によって
自らパレスチナを取り戻す政治的主体へと変貌
を遂げていった。難民キャンプというノーマンズランドは変貌し、そこには
「人間と市民の同一性、生まれと国籍との同一性の破断」(アガンベン)が人間ならざる者として彼らを死に至らしめる悲劇ではなく、むしろその同一性の破断ゆえに人間が真に自由でありうる夢のような姿
が幻視されるようになったと岡は言う。
それでも
国民ならざる彼らが、「人間ならざる者」の分際で政治的権利、人間の自由を求め、世界が人間の新たな共同性へと開かれることを求めたとき、凄まじい暴力となって顕現し、彼らの上に襲いかかることになる
という残酷な現実があり、その現実は翻れば
ノーマンとされた者たちが、ただ生きている命に還元されることを拒否して、自らの政治的生き延びを断固として手放さず、「人間であること」を主張してやまない
から(こそ)でもあるのだとして、岡は第二章を終える。
第二章を読んで感じたこと・印象に残っていること
独裁がまかり通る国・街の様子の描写に他人事ではない恐怖を覚えながら、この章を読み進めることとなりました。プロパガンダが蔓延るという意味では、今の日本も危機に立たされていると思わずにはいられません。音読され、そうした描写が耳からも入ってくることは私にとってはより恐怖を感じる経験でした。
そうした偏向した情報だらけの新聞の片隅に、ジブラルタル海峡を渡る若者についての記述があったということ、その背景を知ってーそして後に書かれているような言葉にしがたいほどのコントラストが存在することにー第一章同様、頭をガツンと殴られるような気がしました。そして、これまでの私自身の経験が思い出されていました。
思い出されたのは2つの経験で、どちらも私が学生の頃のものでした。
ひとつは学部生の頃。私が大学の講義などを通じて日々社会問題や人の生死について考える機会を得ていたとき、私はそうした情報(機会)に触れるたびに一見なんともない、うまく回っているように見えるこの社会には確かに目を凝らさないと見えない苦しみがあるということを感じてきました。一方で、大学の講義やそうした情報から離れると、それらはさもなかったことかのような生活が広がっている現実もある。情報に触れたときに心を痛めることはあっても、一歩外に出ればそれらは忘れ去られ、なかったかのような光景が広がっていることについて(私もその一部として生きていることについて)どう捉えたらいいかがわからなくなったことがありました。勝手ながら、その過ごし方がどうしようもなく苦しく、この不条理の中をどう生きていけばいいのかと私なりにもがいていたように思います。未熟な私は、そのこととは別に自身が抱えていた問題をうまく処理できないでいたこともあったため、その苦しみと重ねてしまったり比較してしまったりして、どう扱ったらいいかわからないでいたようにも(今振り返ると)思います。
もうひとつは東日本大震災の支援活動に携わっている時のことでした。「被災地」に行き、現地に広がる凄惨な光景を目の当たりにし、そこにいる人々に触れて家に帰ってくると、これは果たして同じ国なのだろうかといった感覚に襲われることがありました。実際に不具合を起こす人を見てきたり(私自身もそういうところがあっただろうとは思います)、東北との関わりを深めるほどに、東京の暮らしが東北の電気によって支えられていることなどのコントラストに気づかされーそのことを知らずにのうのうと関東で生活をしながら東北を語っていた自身にー情けなさやら申し訳なさやら、そうした感覚が私の中に芽生えるようになりました。その感覚に気づいた時、そして自分が加害側に立っていると理解した時のショックというのか、落胆する感覚がこの章を読みながら思い出されました。そして「頭を殴られた感じがした」のは、いずれも私がいつしかそれのことに慣れてしまっていたのかもしれない…とふと思ったためであるように思います。
残念ながら、こうしたコントラストはこの社会・世界においてはどこにでもあるのだと理解しています。ある種慣れたかのように暮らすしかないことも理解していますし、私の経験などと比べても仕方がない、比べられるものではそもそもないということも理解していますが、それでもパレスチナにおける”それ”は、もはや見られることすらなく、見られたとしても無碍にされ、なきものにされてきた(されている)現実がある。そのことはどういうことなのかと問わないわけにはいかないだろうと感じます。
この章にある『太陽の男たち』の話は、そのことを突きつけていると私には感じられました。この物語を私は知らなかったのですが、その結末を知って、それでいて叫ぶ人たちを「テロリスト」と称する現実があることを知って、いったいこれはなんなのだろうか…とやはり問わずにはいられません。そもそもこの問いに向き合うべきは誰なのだろうかと、人間は向き合うことができるのだろうか、いや、できなくてどうするのだろうかとー「人間」というあまりに大きな括りではそこに含まれていない、想定されていない人間が生まれてしまうと思いながらもー問うことからも逃れられないように感じています。カナファーニーが叫んだ「なぜ」を、重く受け止めて考え続けなければならないのだと感じます。
そんな折、先日私はNHKのETV特集『人新世 ある村にて』というドキュメンタリー番組と、『NNNドキュメント24 キノコ雲の上と下~米兵の心に苦悩を刻んだヒロシマ~』というドキュメンタリー番組を見ました。
キノコ雲の上と下~米兵の心に苦悩を刻んだヒロシマ~|NNNドキュメント|日本テレビ
前者はインドネシアのとある村でプラスチックごみ拾いで、そしてそれを燃料とすることで生計を立てているー当然ダイオキシンなどの有害物質が発生しているー人たちの暮らしが映されたものでした。後者は広島・長崎に原子爆弾を落としたアメリカ兵と落とされた被爆者それぞれが、どのような人生を送ってきたかについて描かれていました。
この2つの番組には上記の問いへの応答があったように私には感じられたため、少し引用したいと思います。前者では経済人類学者であるジェイソン・ヒッケルが人新世と呼ばれる世界となっていることについてこう語る場面がありました。
問題を引き起こしているのは高所得国とりわけ富裕層である。不平等がもたらす危機なのだ。
また、社会学者のシュテファン・レーセニッヒは
私たちは他者を犠牲にする「外部化」によって自己を安定させ、再生産する社会に生きている。社会の多くの層の暗黙の了解と積極的な参加によってこのシステムは支えられている。
として、歴史学者の藤原辰史氏は
大きなシステムとしてそこに人々が危険な仕事をし、かつギリギリのラインで生きていかざるを得ないというシステムを私たちがずっと是認し、黙認してきた。その一つの形がインドネシアの豆腐工場のダイオキシンが発生しているところにつながっている。ある意味19世紀から世界中を覆った力の強い国がもたらす力の弱い国への植民地主義ですね。構造の非常に不正義で満たされているときに一番その矛盾の調整をさせられるのは一番下。調整能力はいつも下に降りていき、そこは法的にやばいけど、なんとかクリアしないといけないという綱渡りをさせられるのは賃金の低い人たち。これはどんな構造でもそう。
と語っていました。
後者では、原子爆弾を落としたエノラ・ゲイに乗っていた戦闘員は「戦争を早期終結させた英雄」であり「(アメリカ人を)救ってくれた」とされる一方で、投下した本人たちは数年後に「なんてことをしたのだろう」と自責の念に苛まれていることが描かれていました。被爆者が「憎んでいない」と言ってくれたとしても「墓場まで持っていくような恨み」があることからは逃れられないという語りもそこにはありました。
インドネシアが、パレスチナがこのような状況にあるのは、この世界のシステムが一部の偏った強者によって植民地主義的に作られ、その反省がないからなのだろうと私は思わずにはいられません。このことに向き合わずにいて私達はいったいどうなるのだろうかという問いには、エノラ・ゲイの戦闘員と被爆者の姿が応答しているのではないだろうかとも私は考えます。それでも核の廃絶は愚か、核の脅威にさらされ続けている人間社会というのはいったいどういうことなのか。そのことがやはり問われているのだろうと思います。そしてその私も間違いなく加担側に立っていることから目を背けてはいけないのだと痛感しています。
この章でトラウマを根源として表現活動を続けるボルタンスキーの存在が書かれていたことは(希望とは言えないまでも)その問いに応えようとする人間も確かにいるということの示唆であるように私は感じています。ノーマンズランドにいる存在を世界に主張してやまない人間がいるということ。それを確かに受け止めないといけないのだと思います。いや、そもそもノーマンを生み出さない社会・世界にしないといけないのであり、それはすなわち、タンクの壁を叩く音をエアコンの音で消してはいけないのだということだと考えます。この章はそのことを訴えているように感じました。応答する存在になりたいし、なろうとしないといけないのだろうと感じます。応答がやがて誰かと誰かをつなぎあわせる言葉になるのだと信じたい。そのようにする責任があるのではないかと、そんなことを考えさせられる章でした。
パレスチナについて語り続ける『ガザに地下鉄が走る日』読書会①
岡真理さん(以下、岡と呼ぶ)の著書『ガザに地下鉄が走る日』の読書会をはじめました。
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経緯についてはこちらを参照いただければと思いますが、イスラエルによるパレスチナのジェノサイドに少しでも抗議・抵抗の意思を示したいと思い、仲間とともに読書会を行うこととしました。パレスチナのことを語り、パレスチナのことを(不勉強ながら私なりに)発信することができればと思い、こちらで記事にしていきます。
読書会は数週間から一月に一度ほどのペースで定期的に開催(予定)し、一章を区切りとしてそれぞれに長さを調整しながら音読しあう形式を取っています。それに合わせて記事も一章ごとに書くこととし、私なりの要約ー要約することで多くを取りこぼすこと・解釈や理解の誤りなどが生じているであろうことを自覚しているので、実際に本を手を取ってみてもらえたらと思いながらーと、章の内容や読書会をしての私の感想などを書きたいと思います。ジェノサイドが一刻も早く終わり、あまりにも大きな傷が少しでも確かにケアされ、パレスチナが自由になることを願って。
※要約は常体を基本とし、私の感想その他は敬体を基本としたいと思います。
第一章『砂漠の辺獄』の(私なりの)要約
ありのままの人間の安定した立場は、国民国家の法権利にあっては構想することができない。
この本は上記、イタリアの哲学者であるジョルジョ・アガンベンの言葉の引用からはじまる。そして、第一章は、暴力の連なりが1948年のイスラエル建国にあたって起こった民族浄化=ナクバからはじまることを示し、アガンベンの言葉へとつながっていく。
章の最初の節『1 ダイイング・メッセージ』で、そのことがすべて表されていると言っても過言ではないだろう。短い節をすべて引用したい。
インターネットで見つけた一葉の写真。
砂漠のただなかで五、六歳だろうか、幼い少女が両腕を懸命に上に伸ばして一枚の大きな紙を掲げている。そこには手書きの英語でこう書かれているー❝I’m dying in the desert❞わたしは砂漠で死んでゆく。背後にはいくつものテントが連なる。場所はイラク・シリア国境の砂漠地帯。時代は二〇〇七、八年ごろ。少女は内戦下のイラクを逃れようとして、国境のはざまのノーマンズランド(緩衝地帯)に留めおかれているパレスチナ人だ。
100万人ものパレスチナ人がパレスチナの領土から強制追放され、虐殺、強姦にあったナクバ以降、パレスチナの難民問題は世界規模のものとなっている(『揺らぐ世界』参照)。
そこから六〇年近く経って、パレスチナ人である幼い少女が難民として留めおかれている現実がある。六〇年の間には数え切れない暴力があり、二〇〇四年にはイラク戦争、二〇一一年にはシリア内戦があった。そうした暴力は島国にはない「国境」というものを強く意識させる。国境は実際のところ「線」ではなく「面」であることを岡は体験を通じて語る。
国境と国境のあいだには、場合によっては数キロ以上に及ぶ緩衝地帯が存在するのだということを、国を出ただけでは、隣の国に自動的に入れるわけではないのだということを、私は一九八三年六月の頭、ラマダーン月が始まった最初の日に、トルコ・シリア国境で知ったのだった。
そうした国境と国境のあいだにある「面」はどのような空間なのだろうか。岡はそれを「ノーマンズランド」と呼び、こう説明する。
国境と国境のはざま、国民国家と国民国家のはざまの空隙ーノーマンズランド。何者のものでもない土地。国民国家の外部、いや、もしかしたらそれは、「この世界」そのものの外部なのかもしれない。
ノーマンズランドという空間が存在すること、そうした世界(国家)から排除された・されている存在がいることをこの章(に限らずこの本全体を通してであろう)で岡は徹底的に語っている。冒頭の幼い少女の例のように、ノーマンズランドー「夏は気温が摂氏五〇度を超え、冬は零下となる砂漠のただなか」ーに何ヶ月もの間、留まることしか許されないパレスチナ難民は、
人権とも、彼らを守る法とも無縁
なのである。それを岡は
ノーマンの土地の住人たちである彼らはNoManだった。
とし、
「法」も「人権」も、それは「人間(マン)」、すなわち「国民」の特権なのだということ。国民でない者は「人間」ではない、それが普遍的人権を謳うこの世界が遂行的(パフォーマティヴ)に表明している紛うことなき事実であり、その事実がー彼らが「国民」ではないために「人間」ではないという事実、それゆえに人権や人間を護るべき法の埒外の存在であるという事実がー露わになるのが、ここノーマンズランドだ。
とする。このことは私達が生きる世界とはいったいどのように構成されているか、何を見落としていることに気づかせないのかを揺さぶる。
先ほど、島国には「国境」がないと書いた。これは島国だからという理由だけで片付けられないと岡は言う。それを知らずにいるのは、私たちがノーマンズランドの存在を知らないで済む「国民」という特権を持っているからなのだと。
この本のはじまりで引用されたアガンベンはこうした特権=「生まれがただちに国民となる」という考えを「暗黙のものとなっている虚構」としていると岡は言う。そして、それは何も物理的な砂漠の辺獄としてのノーマンズランドに留まらず
「人間と市民の同一性、生まれと国籍との同一性を破断する」難民という死者ならざる死者たちが住まう空間はどこであれ、すべて砂漠の辺獄であり、そこにおいて「この世界」を成り立たしめている暗黙の虚構ー人間の生まれと国民になるということのあいだにいささかの隔たりもありえないという、国民国家を基礎づける虚構ーが白日のもとにさらされている。
のだと言う。パレスチナ人は「位相幾何学的な穴」とアガンベンがするように、私達の生きる世界が幾重にも歪められ変容した地帯に置かれているのであり(と私は解釈する)
パレスチナを思考するとは、ノーマンとともにこの砂漠の辺獄から世界を思考するということにほかならない
のだとして、第一章が結ばれている。
第一章を読んで感じたこと・印象に残っていること
「パレスチナを思考するとは」という章の最後の一文を受け、世界は・私は果たしてわずかであってもそのように思考できているのだろうかと正直突きつけられた気が私としてはしました。それが第一章を読み終えて最初に感じたことであり、こうした地平に立とうとして考え、語ろうとしないといけない、でもそれをどのように私はすることができるのだろうかと思わされています。
読んでいて、文章すべてに圧倒される感覚を覚えましたが、最初に私の目を引いたのは(上記要約には一切触れませんでしたが)ノーマンズランドに設けられたキャンプ・カラーメで行われている難民支援=教育機会を奪われている子どもたちのケアの話でした。ここに目がいったのは、私が東日本大震災で子どもたちにかかわらせてもらってきた経験があるためだろうと思います。私がその現場で感じていた無力感ー災害の圧倒的な力や地域社会の抱える課題の大きさなどを思いーとはまた質の違う無力感をその現場では深く感じていたのではないだろうかと感じました。すなわち、人間や世界による暴力を止めることができない無力感、ケアをしなければならない現状が次から次へとやってくる無力感に現場は苛まれているのではないだろうかと私としては考えてしまったのです。
そこでケアを受けたこどもたちは今では大人になっているだろうー暴力の日々の中で生き延びていてくれればという条件がついてしまう残酷な現実がありますがーと考えられ、まさにジェノサイドに直面しているとすると、ますますこの現実をどう考えたらいいのかが私にはわからなくなります。そして、今のこどもたちが大人になる頃の世界が果たして本当の意味でいい方向に向かっているかが定かではない中、どういう言葉を私は持つことができるのだろうかと思わされます。語る言葉を探していくしかないし、探すことのできる・見つけることのできる社会を目指していくしかないのだろうと改めて思います。
第一章で特に印象に残っているのは、この文章でした。
唐突ですが、私はアレッポ石鹸を日常で使用している人です。シリアのことを知ったことでアレッポ石鹸のことを知り、アレッポ石鹸を使うことでシリア・アレッポのことを誰かと共有する機会ができたらと思って、もう10年近く日常使いをしています(アレッポ石鹸が本当にいい石鹸なのでそれも使い続けている理由です)。
正直、このことは私自身のただの自己満足なのではないかと思う気持ちもあれば、この程度のことしかできないという気持ち、果たして何らかのプラスに本当になりえるのだろうかという気持ち、つまりは無力感につながっていたりします。そのことも含め、日常でアレッポ石鹸を使っていること自体に「痛み」を感じずにはいられない感覚を時折覚えることが、この文章を印象深いものにしているのだろうと思います。
また、私は主に日本国内の災害に遭った地域の地名を痛みを覚えずに口にすることができなくなっている感覚がありました。差別発言を構わずするような為政者がいる地域などもその地名を呼ぶ際にも痛みのようなものが伴います。地名を呼ぶときに伴うそれが「痛み」であり「悼み」でもあることを、この文章は私に教えてくれたのかもしれず、それはこの世界が痛み(悼み・傷み)で満ちていることを私に突きつける一方で、パレスチナのようにあまりにも圧倒的な暴力に遭い、果たして癒えることがあるのか疑わしいほどの傷が刻まれ続けている世界の痛みを見えなくする力の存在をも思わせます。この短い文章はその力に抵抗する意味で、重要な一文なのかもしれないと感じました。
この章で最も考えさせられたのが「特権」のことでした。要約で少し触れましたが、「特権」について書かれた別の文章を引用したいと思います。
人権なるものが、その言葉とは裏腹に、「ありのままの人間」の権利ではいささかもなく、市民や国民である者たちの特権であるという人権をめぐるこの背理(アボリア)は、実は背理ではなく、国民主権を基礎とする国民国家の誕生の中に書きこまれたものである(以下略)
「特権」とは「気づかないでいられること」だと私は理解してきました。この文章はそのことと同義であると考えられるものの、その考えをどこか根底から崩すような力のある文章に私には思えました。どう解釈をしていいのか、どのように言葉にすればいいのかが私にはわからないのですが、「特権」を有するものはどこまでも「特権」を有しており、行使していて、そのことによって成立している社会・世界に私達は生きているー生きることができなくされているーのだなということを考えさせられています。
最近『遠い夜明け』という映画を観ました。
[rakuten:book:20724160:detail]
南アフリカのアパルトヘイトと闘った黒人活動家であるスティーブ・ビコ(以下、ビコ)について描かれた作品です。
作品内で「特権」に関する印象的なシーン・セリフがあったので、少し長くなりますが引用したいと思います(ネタバレになるので以下の数行はご注意ください。「・・・・・」でくくります)
・・・・・
ビコは白人の記者であるウッズに黒人街を案内することとなりました。そこで二人の前を走り回る子どもがいて、ビコはウッズにこう話します
「逃げ足が速く生き延びることができてもこの町からは抜け出せない。親が努力したところで白人が与える教育しか受けられない。やがて白人街に働きに出て、彼らの家や車を目にする。そして自分の何かがおかしいと感じ始める。人として劣っているのは黒人であるからだと。白人の子は愚かでも賢くてもあっちの世界で生まれる。だが黒人の子は賢くても愚かでも、この世界に生まれ、死んでいく」
そのままビコとウッズは黒人街にあるバーに行き、そこでビコや黒人たちは音楽に合わせて踊ります。その様子をウッズは観察するかのように見ており、ある黒人がウッズにこう話します。
「ここにいるのはわびしい男たちばかりだ。労働許可証も居住許可証もない。同じ白人街で働かなければ夫婦は同居も許されない。白人が引き裂いた。」
踊り終わったビコがそのまま
「黒人の夫婦は年に1度でも会えれば幸運だ。」
と付け加えると、ウッズは
「アパルトヘイトは政府が決めたことだ。全白人を責めるな」
と返します。
そのことで場が少しぴりついたこともあり、黒人たちとウッズは場を変えて話をすることに。そこでは以下のようなやり取りがされることになりました。
「アパルトヘイトには反対だが、彼(=ビコ)こそ反リベラルだ。」(ウッズ)
ビコの表情が変わるも、ウッズは続けて
「我々は融合を目指している。」
と言います。
それを聞いたその場にいた黒人女性が
「黒人にマシな教育を与えてマシな仕事に就かせる?」
と返すと、ウッズが
「最初は…」
と返そうとしたところで
「白人社会に押し込めるな。俺は俺だ。殴られ、投獄され、殺されても、白人の言いなりにはならない。」
とビコが言います。別の黒人男性(便宜上、黒人男性Aと表記)は続けて
「あんたたちはせいぜい俺たちを白人の席に着かせるだけだ。俺たちが白人の作法に従えば座らせてやると。俺たちが望むのは黒人の席で黒人の権利を行使することだ。」
と言い、もうひとり別の黒人男性は
「忘れてはならない。白人が来る前から我々には独自の文化があった。多くの小さな村で暮らし、独自の言葉があった。甥のことは"兄弟の息子”と言う。テンジーは私の妻を"おば”ではなく、"母の姉妹”と呼ぶ。家族の関係を表す呼び名がない。我々は誰もが"兄弟”と"姉妹”だ。皆で支え合ってきた。」
とウッズに向けて言います。先程の黒人女性がその話に
「いろいろな問題も自分たちで解決してきた。」
と付け加えるとウッズは
「部族間の争いはあっただろ」
と応答します。すかさずビコは
「世界大戦はどうなんだ?」
と返したことで、黒人たちは笑い、ウッズは
「君は弁が立つが、どこか危険だ。」
と気に食わない反応を示します。それを受けて黒人男性Aは
「白人社会が"正常”だと考えているからだ」
と返し、ビコは
「君たち(=白人)が賢いのは黒人にもそう思わせてきたことだ。」
と言うのです。
・・・・・
ここで描かれているのは白人「特権」ですが、この場面だけでも幾重にも特権者の目線がどのようなものか、暴かれているように思います。イスラエルがパレスチナにしていることは特権的な目線で生まれているアパルトヘイト的な暴挙のように私には見え、その目線が暴かれ変容されねば(裁かれねば)ならないのだろうと考えます。『国ってなんだろう?あなたと考えたい「私と国」の関係』の著者である早尾貴紀はナクバについて
(ヨーロッパで虐殺の被害を受けたユダヤ人は)パレスチナでは迫害された民が迫害する側になったのです。それは、ひとつの民族がひとつの国家を占めるべきだという民族主義的な国民国家の考え方、ヨーロッパ流の優越意識と植民地主義、それにユダヤ人の離散と帰還という神話、これらがいっしょに働いた結果でした。
と言い、先程書いたように「特権」を有するものはどこまでも「特権」を有しており、行使すること。そのことによって成立している社会・世界に私達は生きている・生きることができなくされているということなのかとやはり考えさせられます。
[rakuten:book:17735560:detail]
こうした暴力をどのように止めることができるのか、どうして起こり続けてしまうのか。そこには「特権」についてどこまでも考え続ける必要があるのかもしれないと私は感じました。もっと学び、考えないといけないと思わされます。
この記事の最後に、第一回の読書会をやってみての感想も書きたいと思います。
音読をするときにとても緊張する私がいました。それはこの本の持つ力というのか、ここに書かれていることを間違って読んではいけない(読みたくない)気持ちが強く働いたからな気がします。ここにある言葉を大事にしたいという気持ちとも言えるかもしれません。
音読する仲間の声を聞きながら感じていたのは、確かにこの本を一緒に読んでいる存在がいるのだなということでした。涙がつたうようなこともあって、それは内容はもちろんのこと、誰かが語るということに力があるからのようにも思いました。この問題を一緒に考える誰かが確かにいると感じられることは、それこそ「特権」なのかもしれません。それでもこの感覚を頼りに、少しでもパレスチナを思考する地平に立てるようにこれからも語っていたいと感じます。
『ガザに地下鉄が走る日』の著者である岡さんが
で語ったことを引用してこの記事を終えたいと思います。
やがて世界はこの出来事を、「パレスチナ人のホロコースト」の名で記憶するだろう。そして語るだろう。ガザの、パレスチナ人の、無数の物語を。人間であろうとするがゆえに、人間を非人間化する究極の暴力に見舞われて、それでもなお人間であることを手放すまいと抵抗を続けた、それぞれに名をもち、顔をもち、声をもった一人ひとりの人間の物語を。人間、それでもなお。ガザは甦る。
第八回勉強会での気づきと学びー「スマホ」について―
これまで有志で定期的に勉強会を行ってきましたが、このたび諸事情により勉強会を解散する運びとなりました。計25回実施してきて、学びを共有していただいた方々には心からの感謝の気持ちをお伝えしたいです。
私自身、多くの気づきと学びをいただいてきたためーだいぶ間隔が開き&不定期の更新でしたがーまとめ記事の方はのんびりとひとつひとつ書いて残していきたいと考えています。
第八回の勉強会では私たちの生活に欠かせないスマホ(ネット)の利用について考える時間を過ごしました。
参加者のスマホ事情(もちろん話せる範囲で)をはじめ、スマホが人々に与えている影響について共有する時間となりました。

ここでは主に
・『スマホ脳』について
・スマホと依存(症)
・スマホと資本主義
のあたりで私が考えたことを、書籍の引用をしつつ参加者の言葉をお借りしながら書いていきたいと思います。
~以下、参加者とのやり取りなどが一部あるため有料としています(非公開グループでの内容なので安易に不特定多数の人と共有をできないようにしております。ご理解いただければ幸いです。)~
※なぜか無料部分が重複してしまっていますが、ご了承ください汗
第七回勉強会での気づきと学びー「スポーツ」を考えるー

地域福祉に関する講義のゲストスピーカーをさせていただきました
先日、地域福祉に関する講義においてゲストスピーカーをさせていただきました。
当日は一時間ほどの時間をいただいて、自己紹介を少しと、私なりの「地域」を知ることの意義・「地域福祉」を学ぶことの意義についてお話をさせていただいたところです。
学問としての学びの時間とは程遠い内容ではあったと思いますが、学生さんたちは私の実体験を通じた話に耳を傾け、様々なことを感じてくれていたようでした。
この記事ではその際にお話した内容を、学生さんからいただいた感想を入れつつ、少しだけ詳しく(※簡易版はこちらに書きました)書きたいと思います。
私にとって「地域」を知る経験
私は群馬県で生まれ、埼玉県で育ち、大学院生活を修了するまでずっと埼玉の実家で過ごしました。
埼玉にいるときは、お恥ずかしいことに「地域」なんてものを考えたことはほぼなく、ましてや大学での講義などを除いては「地域福祉」なんていう言葉を聞いたこと・考えたことなど、全くと言っていいほどありませんでした。
今回の講義では触れませんでしたが、そんな私が初めて「地域」を少しだけ考えたのは、大学生活でいわゆる地方から上京してきた人たちと仲良くなったことでした。
東北や九州などから引っ越してきた人たちと仲良くなり、彼らから私の「地元」のことを尋ねられることがあったのです。その時に私は「地域」のことを「何も知らない」という自分に気付かされたのでした。
「ずっと実家」と書いたように、20年近く同じ「地域」にいたにも関わらず自分のいた「地域」のことを何も知らないということは、私としては少し恥ずかしいことのように思えました。
しかしそれは、有名な観光地のことを知って案内や説明をすれば済んでしまう話でもあり、「地域」について考えるという機会にまではならなかったように思います。
そんな私が「地域」を知る・考えるようになったきっかけは、やはり東日本大震災(以下、震災)でした。
震災後、私は埼玉から東北「被災地」に「通い」続けました。
そして、震災から2年後に岩手県へ移り住み、「生活者」として「被災地」に関わるようになりました。
※このあたりのことは以下で書いていますので読者登録していただければ大変うれしいです。
こうした「被災地」に「通う」という経験を通じて、私は「知らない地域」に出会い、知るといった経験を繰り返していきます。
「災害ボランティア」「復興支援」という名目で「地域」に訪れてはいましたが、毎回「知らない地域」を「知りに行く」経験をさせてもらっていたという表現の方が正しく、その経験が後の「生活者」となる選択を後押ししてくれたように思っています。
そして移り住んで「生活者」となって「知る地域」は、「通い」で「知る地域」とはまた違って見える経験となりました。
具体的な地名や言葉・風土・文化・歴史などを「生活」の側から「知る」ことは、私にそこに確かに「地域」があることを思わせます。
さらには「被災地」という特殊な条件の「地域」における「生活」は、「地域」を知ることとはどのような意味(意義)を持ち、「地域」はどのように作られていくものなのかということを日々肌で痛いほど感じさせる経験でした。
災害が襲った「地域」に「通う」経験、「生活」をする経験。
これらの経験を通じて、私は「地域」を知ることに「意義」を見出すようになり、その「意義」について学生さんたちに共有をさせていただいたのでした。
「地域福祉」を学ぶことの意義
続いて、「地域福祉」を学ぶことの意義ですが、私の恩師は「地域福祉の地は地酒の地」という言葉を残しました笑。
「地酒」はその「地域」の水・米・技が折り重なってできるように、「地域福祉」もその「地域」の風土や人・技が折り重なってできていく、そしてそれはその「地域」らしい形(「味」)を成していく、といった意味の言葉です(と少なくとも教え子たちは思っています笑)。
ちなみに、何を隠そう、私は東北「被災地」に関わるようになってから「地酒」を飲むようになりました。
恩師が言われるように、「地域」にはその「地域」の「味」があることを私は「通い」と「生活者」の経験を経て感じるようになりました。
ここにすでに「地域福祉」を学ぶことの「意義」があるようにも思いますが、「地域福祉」や「被災地」はそこで留まらず、私に様々な問いかけをしてきました。
「地酒」のたとえの文脈で書かせてもらっていけば、「地域」の「味」はどのように扱われてきたのかを考えさせられてきたのです。

「味」はうまいかどうかが大きな分かれ目であることは当然ですが(うまい酒を飲みたいです)、「味」がうまければ(進歩として)尊重され、まずければ見下されるということでは本来ないはずです。
もちろん、まずさの理由が「汚染」や「悪意ある行為によるもの」、「有毒なもの」ー「地域」で言えば「排除」や「差別」「暴力」に関するものーであれば、それは評価されるものとは到底言えず、批判され、なくさなければならないものだと考えます。
しかし、「地域」の「味」はこれまで資本主義社会に喜ばれる「味」かどうかで判断がされてきていたのではないだろうか、あるいは、「地域」の「味」はうまいものに画一化され、それこそを「よし」としてきたのではないだろうかと私は考えるのです。
また、キムジヘは「地域」に限りなく近い「街」についてこのように言います。

この指摘にあるように、「地域」の「味」は誰にとって「うまい」なのか、その誰かの「うまい」は誰かの「まずい」の声を消し去っていないのだろうかと私は考えさせられてきました。
これらをまとめれば、資本主義社会に喜ばれる画一化された「味」は、特定の誰かにとっての「うまい」である可能性があるということ、になります。
このことに私は非常に危機感を抱いてきました。
「味」は甘味・塩味・酸味・うま味・苦味(他にも渋味や辛味)があって構成されると言いますよね。
料理(地酒)によって、その構成要素の強弱が異なるのは当然であり、画一化されればいいものではないでしょう。当然「甘い味がいい」という特定の誰かの料理だけが重宝されることも違います。
しかし、「地域」は本当にそれが否定され、是正されたものとなっているでしょうか。
「地域福祉」を学ぶことは、こうした「地域」の「味」を学ぶことにあるのではないかと私は思い、そうした経験から感じる「意義」について、今回共有させていただきました。
今大事にしていること、これから大事にしていきたいことー学生さんの声も交えながら
結論を書いていないことから、少しわかりにくい内容になってしまったかと思い、その点お詫び申し上げたいと思います。
ただ、私の結論よりも(聞きたいと思ってくださる方はお声かけてくだされば幸いです)このごちゃごちゃした感じから考えていくことの方がはるかに大事かと思うため、そんな風な機会にしていただければ幸いです。
この講義の最後に私は、今自分が大事にしていることやこれから大事にしていきたいと考えていることについてお話をさせていただきましたので、そのことを書いてこの記事を終えたいと思います。
私は岩手県に移住しおよそ10年ほどをそこで過ごしました。おそらく、これからもそれらの「地域」とは関わり続けることになると思いますが、現在私は新天地(生活の地)や多拠点生活の可能性も考えて、様々な地域での「生活」を体験させてもらっているところでした。
それは新天地・多拠点生活を考えるほかに、このように考えてもいるためです。

この言葉は私の頭の中に常にあり、全体観をもって、広い視野から物事を見られるようになりたいという思いが強くあります。
奇しくもこの言葉は、第二次世界大戦がはじまる前に(するようにと)、宮本常一がかけられていた言葉であったそうです(確か)。
穏やかでない世界情勢を前にこうした歩みを経験することになっていることは少し不気味ですが(似た状況であることを考えたくもないです…)、少しでも「取りこぼさない」目線を持てるように「地域」から学び続けていたいと考えます。
また、「地域」を「知る」意義や「地域福祉」を学ぶ意義を実感してきて思うのは、社会的公正に向けて取り組む必要性でした。


私はこうしたことを念頭に置いて、これからを考えていきたいと思っています。
学生さんからはこのような声がありました(一部大塚修正)。
一番印象に残ったお話は、地域福祉を学ぶことの一つの意味についてです。私は人と人との間に繋がりのある地域を目指したいと言いましたが、(自分が強い力を持っていたら)この目的に沿わない人々が地域から排除される可能性もあります。これからそういうことを意識して自分の住んでいる地域を見ていこうと思います。
拙い話でしたが、より公正な「地域」や社会に向けて、共に考える仲間が増えてくれて大変光栄に思いました。同時に、今の若い人たちがこれ以上余計な重荷を背負わなくて済むようにするためにも、一歩ずつ歩みを進めていきたいと思うのでした。
以上が私のゲストスピーカーでお話した内容となります。
もしご関心くださる方がおられましたら、お声掛けいただければ幸いです。
お読みいただきありがとうございました。
第六回勉強会での気づきと学びー「時間」と「心無い言葉で傷つく」ことと…ー
