kotaro-tsukaのブログ

社会の構造によってつくられる誰かのいたみ・生きづらさなどに怒りを抱き、はじめました。「一人ひとりの一見平凡に見える人にも、それぞれ耳を傾け、また心を轟かすような歴史があるのである」(宮本常一)をモットーに、ひとりひとりの声をきちんと聴き、行動できる人になりたいです。このブログでは主に社会問題などについて考えることを書いていく予定です。

「貧困と健康」の関係について―病院に行ってみて思ったこと―

このブログは社会問題系についても考えること・思うことを綴っていきたいと思っていたため、今回は「貧困と健康との関係」について少し書いてみたいと思います。

 

と言いますのも、アメブロの記事で恐縮ですが、先日行った健康診断の結果があまりよくなくてですね…要検査項目があったため、病院に行ってきたのです。


その際に「貧困と健康」との関係について考えざるを得ず、記事にしたいと思いました。

 

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貧困と健康の関係について考える

 

病院に行ってみて…

 病院に行った私は、通常通り(コロナ対策はしてましたが)問診表を書き、お医者さんに呼ばれ診察室に入りました。

 

診察室でお医者さんにまず言われたのが

「健康診断の結果を聞きに来たということでいいですね」という一言でした。

 

要検査となっていたので通院したのに、きちんと再度検査をすることにならないのか…?と(初めてのことだったので余計)少し戸惑った私は、「要検査と出たので来たのですが、、、検査とかはしないのですか?」と聞き返すと、「数値見ても大丈夫で、一年に一度の健康診断すればいいですよ」と返事が返ってきました。

安心するやら「これで終わり?大丈夫なの?」と不安に思うやらだったので、今回私が要検査となった箇所は血縁関係の中に病気になっている人がいることなどを一応伝えると、ようやく問診っぽいかたちでいろいろ聞かれ、受け答えをすることになりました。

 

それでも「大丈夫だと思います」とちょっと鼻で笑われるかのような(私がラーメン食べたりしていいかと聞いたからですが笑)返事が返ってきまして…失礼な言い方ですが、やっぱりちょっと納得いかない対応だなと思って渋っていると、「一応血液検査しますか?」と言われたので、お願いをしました。

 

血液検査の結果は健康診断の結果とあまり変わらずだったので、「大丈夫だね」みたいな感じで済まされたのですが、その結果を基に私の方からいろいろ問うたこともあり、帰り際―診察室のドアノブに手をかけたとき―に、「エコー検査もしましょうか」と言われ、検査をすることになります。

 

ここまででもなかなか微妙な診療だと思うのですが…エコー検査の時もそれは続きまして…。

 

まず、エコー検査の時に身体に塗る薬剤のようなものがあるのですが、それが結構冷たいもので、垂らすときに一言「冷たいですよ」と言ってくれれば準備ができるのですが、そういうこともなく、どばっとお腹にたらされて検査がはじまりました。

それは百歩譲って全然いいとしても、エコー検査中にあまり発言をしてくれないなと思っていたところ、看護師を呼びにその場を離れ、看護師を連れてきたと思ったら、看護師にエコー検査を変わってもらって検査方法を教わりはじめたのです…。


その理由について患者に何も説明してくれないまま検査は進められ、最後、看護師からまた変わり、「○○ですね」と言われる…そして、最後の診察で「3か月後にまた診断にきてください」として帰される、、そんな診療をされたのでした。。

 

「はじめの見立て」と全く違う結論になりましたし、エコー検査でのことはきちんと説明をしてくれないと、どう考えても患者は「心配」になりますよね…私は「実験台」にされているのかなと感じ、悲しい気持ちになりました。

そういうことの配慮もできないんだなと非常に残念に思ったのでした(と済ませていい気がしないけど…)。

 

経済的な貧困と健康

さて、ここまで私の個人の体験について書いてきましたが、「よろしくない医者もいるんだよ」ということをここで言いたいわけではなく、この体験から考えた「貧困と健康」についてが本題ですので、この体験をもとに本題に入っていきたいと思います。

私は今回の診察について、全く納得も(検査が正確だったと思えるという意味での)安心もしていないので、違う病院・医者にかかりたいと今思っています。


しかし、今回の診療だけで1万円近くがかかりました。

きっと他の病院やお医者さんに診てもらうとなると、同じくらいの値段がかかるでしょう。

これって結構バカにならないですよね。。

 

私はまだ恵まれている方なので、次の診療に行くくらいの余裕は一応持つことができていますが、もし生活ぎりぎりであれば、、次の診療を断念するしかないということもあり得たと思います。

 

経済的に貧困の状態であれば、そもそも病院(初診)に行くことすらままならないかと思われますし、なけなしの大切なお金で診療にきたかもしれないのに、医者を選べない&診療が誠実なものかどうかは運しだいみたいな仕組みによって、貧困の状態である方は不公平を被ってしまいやすい、その声を上げられずに泣き寝入りしてしまうことになりやすいと、その時に強く思いました。


厳密には、医者を選ぶことはできるのでしょうけど、選ばれるような医者であれば、治療費が高額かもしれませんし(すみません、このあたりわからないですが)、予約がなかなか取れないかもしれません。

 

何より、経済的に貧困の状態である方はアルバイトや非正規雇用という立場で、仕事をきちきちに詰めている可能性もあり、簡単に休むことができない=予約を取るのが難しいということもありそうです。

そうすると、ますます身体を放置することになりかねませんよね。

 

貧困と健康は医療機関とのアクセスや良好な診療を阻むものとして、存在してしまっていると言えるように思います。

 
様々な貧困と健康について

また、貧困を語る際に忘れてはならないのが、貧困は経済面だけではなくて、「情報」などにおいても貧困があるということです。


新型コロナウイルスが発生し、リモートワークの導入など、ネットの活用がより当たり前の世の中となってきました。

 

その中で、よく「情報弱者」などという言葉が聞かれるようになりましたが、ネットが当たり前に使われるようになる中、経済的に貧困の状態である場合に、PCやスマホを入手する余裕などないという人もいるわけですね。

 

すると、彼らは情報を入手する術を持つことができず、情報収集が困難になり、そこに格差が生まれます。

 

病院の話とつなげれば、情報を入手しづらいということは、きちんとした診療をしてくれるお医者さんや病院を知ることが難しくなってしまうかもしれません。

 

今回の診療で、私がエコー検査を受けることができたのは、私に多少なりとも「知識」があったためでしたが、この「知識」は「情報」と言うこともできます。

 

ネットなどで調べた「情報」から、「この数値が高いということはこういうことではないのですか?」と医者に問うことができたらから、医者もきちんと検査を考える(それが普通だと思うのですが)ようになったと言えます。

 

情報を得られないという意味での貧困は、今、そしてこれからの社会で生きていくうえで、不公平を生じさせるものとなりうるでしょう。

 

さらに、私は医者相手でもあまり臆することなく「コミュニケーション」を取ることができる方であったことも、検査につながった要因と言えます。

 

これは、私がある程度「人とのつながり」を作る機会や「教育」を受ける機会を享受できていたからということでもある証です。

 

それらを享受できないでいたら、つまり、「人とのつながり」や「教育(格差)」において私が「貧困」であれば、今回適切な検査をしてもらえない可能性があったと言えます。

その声を私は上げられても、「貧困」である方には上げるのがかなりハードルが高いでしょう。

なぜなら、そもそもそれが「適切な検査でないかどうか」をはぐらかされることもあるためです。

 

言い方は悪いですが、相手は医者です。

「お医者様」というように、医者は頭がよくないとなれない職業であり、「ただの患者である私よりも医者の言うことの方が正しい」という構図が否応なく編み込まれているのです。

そこで声を上げるのは、容易なことではないと思います。

 

こうして見てみると、貧困と健康の関係には優劣のパワー構造も入り込んでいることがわかるかと思います。

 

他にも、虐待やDVなど、家族との関係が機能せず、遺伝的な部分の知識を得られない人もいるため、それもひとつの貧困と言えば貧困と言えるかもしれません。

 

そういう人たちを含めて、医療は誰もがお世話になる最後との砦的な位置にある可能性もあるため、本来医者はそういうことにおいても誠実でいることが求められるでしょうし、社会としても「貧困と健康」の問題をしっかりとらえ、包括的に支える必要があると思います。

 

資本主義のもろさと「貧困と健康」を思う

よくよく考えてみても、病院に行くことになる多くは食事の問題と思われ、そう考えると、経済的に貧困の状態であれば、今の社会では身体にいいものをなかなか買うことができないですよね(この構図がそもそもおかしいのだけど…)。

 

情報弱者」であれば、それぞれの体質に合わせてどのようなものを食べることが大事かという「知識」を入手しにくいという問題も出てくるかもしれません。

 

もちろん、必ずしもすべての人がそうではなく、昔、貧しい環境で育ってきた先人が見出し、残してくれている「知恵」というものもあありますし、情報はもはや「過多」なので、「弱者」ばかりがハイリスクとも限りません。

 

しかし、先人の知恵も今はある種「商品」となってしまい、買うことができるかどうかとなりつつあったり、知恵は「人とのつながり」の中で知ることができたりする部分もあるでしょう。

 

情報過多の中では、情報を見極める力、情報を共有してくれる仲間の存在などが大きいと思います。
それを得られないというのは、やはり貧困の問題に通ずる部分があるのではないでしょうか。

 

地域によってはそれを越えているところもあって、私なんかはお米や魚、野菜などはしょっちゅういただけるので、それで過ごせてしまうのではないかというくらいの生活をしています。


ただ、そういう地域ですら、中央の在り方に―資本主義の歪んだ社会構造に取り込まれるしかないような道に―合わせて進んでいくしかないかのような、そういう風潮があり、危機感を抱かざるを得ないでいます。

 

今回通院してみて、私自身、「貧困と健康」の関係―そこにあるパワー構造や資本主義の影響―について、問題意識を新たにすることができました。

どこから何ができるのでしょうか。

本当に変えないといけないと思います。

動いていきたい。