声を上げるということ@「若者の投票率の低さ」を考える前に
以前、「若者の投票率の低さ」について考える記事を書きました。
その続きを書くことができればと思っているのですが、その前に、投票(率)
とも近い概念(投票もそのひとつの表れ)である「声を上げる」ということについて書いておきたいと思います。
私の些細な「声を上げた」経験
まずはじめに、私の些細な「声を上げる」経験について、ふたつ書きたいと思います。
このふたつは些細な経験ですが、「声を上げる」ということについて書きたいと思ったきっかけとなった経験でした。
早速、一つ目の経験についてですが、これは昨年のとある旅先のホテルでのことです。
詳細はこちらにあるので省きますが、どのような経験であったかを要約すると、宿泊先の部屋が臭かったため(下水の臭いがする)、部屋を変更してもらったことがあったのです。
一つ目の経験は以上です笑。
…いくら「些細な経験だ」と前振りがあったとは言え、こんなこと?と思われた方もおられるかもしれませんが、この経験をした際、私は「声を上げる」ということについて書きたいと思ったのでした。
二つ目の経験は、とあるレンタルビデオ店でのことです。
DVDを借りに、とあるレンタルビデオ店に行ったのですが、その時にふと私の目に入ったのが、子ども向けDVDコーナーの陳列棚の表記でした。
そこには「男の子」と「女の子」という表記がされていたのです。
「それがどうしたの?」と思われた方も多いかと思いますが、私は「これは果たして誰が「男の子」あるいは「女の子」の作品だと決めて棚に並べたのだろうか」と思いました。
「それがどうしたの?」と思われた方のご想像通り、「男の子」のコーナーにはいわゆる戦う系のアニメやギャグ系のアニメのDVDが並んでおり、「女の子」のコーナーにはプリ〇ュアなどのアニメのDVDが並べられていました。
でも、冷静に考えて、「男の子」でもプリ〇ュアが好きな子はいますよね?
「女の子」でも戦う系やギャグ系が好きな子もいますよね?
なぜ性別でそれを仕分けられないといけないのでしょうか?
この件、Twitterでつぶやいてみたところ
「少年漫画」「少女漫画」という括りを無くしたら乱雑で探しづらいと思います。
アニメについてはほとんどの場合「原作」と呼ばれるものがあります。購読層に合わせて「少年」「少女」「青年」「女性」など。
これらについては単独の漫画ではなく複数の漫画が綴られている以上グループ分けがされます。
グループによる属性分けは「商品を見やすくする」という理念から来ているので「元々存在しているグループを解体して並べる利点」が薄くなってしまいます。
といった(略していますが)コメントをいただきました。
この方のコメントの意味はわかりますし、確かに『週刊少年ジャ〇プ』などには「少年」の文字があり、その意味で「少年ジャ〇プ」コーナーなどがあるのはやむを得ないのかと思います(今の社会では)。
しかし、未就学のお子さんが見るアニメに関しては、『未就学児男の子コミック』など、特にありませんよね?
年齢で分けるのはまだわかりますが、性別で分ける必要性については、「子どもにとって」どういう利点があるのかはわかりません。
この方のおっしゃるように、「探しづらい」のであれば、それこそ「戦隊もの」とか「作品名」もしくは「作者名」、「放送時間帯」などで仕切った方がいいかと思いますし、現在のその属性分けが必ずしも今の時代(これまで見過ごされてきたことを含め)に適しているとも言えないでしょう。
「それは手間だ」と言うのであれば、他にも様々工夫のしやすさはあると思いますし、そもそも、子どもの権利条約には4つの一般原則があり、その一つに「子どもの最善の利益」があることを、私たち大人は理解する必要があると思います。
「子どもの最善の利益」というのは、
国や大人は子どもにとって「何が最もよいことなのか」を考える。
子どもはそれを「考えてもらう権利」がある。
といった内容であるため、これを「手間」だとして無視することは大人としての責任を果たしていないことになります。
唐突ですが、この絵本をご存じでしょうか。
女の子だから、男の子だからをなくす本 [ ユン・ウンジュ ]
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『女の子だから、男の子だからをなくす本』
この本には、性別の枠組みや役割から自由になるために、ジェンダーに関する知識が様々描かれています。
「男の子だから○○でないと」「女の子だからこれはさせない」など、私たちの世界では性別による偏見(ジェンダーバイアス)がはびこっています。
私はもともとジェンダーバイアス関連に関心があり、この絵本も読んだことがあったため、レンタルビデオ店の陳列について疑問に思うことができました。
(すみません、ここでようやく「声を上げた」経験の話に戻ります)そこで、私はこのレンタルビデオ店の本部に以下のようなメールをしてみたのです。
これが私の二つ目の「声を上げた」経験です。
「声を上げた」というか、「問い合わせた」経験に過ぎないのかもしれませんが笑、この行動を取ったときにも私は「声を上げる」ことについて、記事を書きたいと思ったのでした。
ちなみに、その私の問い合わせメールにはこのように返ってきました。
私はこのお返事を読んだ時、私の「声」に対して前向きな考えを示してもらえたということを単純にうれしく思いました。
これでもし陳列棚の表記が変わっていたら、それは子どもたちにとって生きやすい世の中にほんの少しでもつながることかもしれないなどと思うと、ワクワクもしていました。
そして後日です。
同じレンタルビデオ店に行ってみたところ…棚の表記がなんと!変わっていませんでした。。
…大変残念に思いましたが、この結果も含めて、私は「声を上げる」について記事を書きたいと思ったところです。
「声を上げること」は「身近」なこと
私の些細な「声を上げる」経験について、お付き合いいただきありがとうございます。
ここからは、「「声を上げること」について記事にしたい!」と思ったということのほかに、私がなぜ上記ふたつの経験を挙げたかについて書きたいと思います。
ひとつ目の、ホテルでの経験を挙げた理由についてですが、これは結論から書くと「声を上げる」ということはとても「身近なこと」であると私自身感じたためです。
「声を上げる」と聞くと、私たちはどこか大変なことのように思いがちです。
大勢で集まってプラカードを持ち、町を歩き回るデモのようなイメージを描く人が多いのではないかと思います。
それも「声を上げる」ことには間違いありませんが、何もそれだけが「声を上げる」ということではありません。
むしろそうではないことの方が多く、私がした「ホテルの部屋を変えてもらう」ということも、ひとつの「声を上げる」ことなのです。
なぜなら、この経験は私には「ホテルで安全に過ごす権利があり、それを主張した」と言い換えることができるためです。
「声を上げること」が「身近なこと」であると知ることは、私たちには「人権」があるという当たり前の意識を高めることにも貢献するのではないだろうかと考えます。
どういうことかというと、今自分が「声を上げられる」環境で生活できているかどうかと考えた時に、「そうでない」のであれば、それは権利が脅かされていることになります。
何かによってあなたが抑圧されているということであり、あなたにはあなたらしく生きる「権利」があるのです。
もし普段、家庭や学校、職場などで「声を上げる」ことがしづらいようでしたら、それはあなたが悪いのではなくて、関係性や構造に歪みがあり、「抑圧」がそこにあるということを表しています。
それはあなたをはじめ、「抑圧をしている側」以外、往々にして「生きづらさ」を感じているものです。
もし可能であれば(そんな簡単なものではないことは理解していますが)、同じように「声を上げづらくされている」仲間を見つけて共に構造を変えるための話し合いをしたり、そのために第三者や相談機関などの力を借りたりできるとよいように思います。
このことは同時に(反対に)「上げられた声に耳を傾けているか、傾けようとしているか」どうかについても私たちが気をつけねばならないことを示していると思います。
もしあなたが「声に耳を傾ける」べき立場であるにも関わらず、それを怠ってしまっているとき、そこには「抑圧」が生じている可能性があるのです。
反対に、もし家庭や学校、職場などにおいて、あなたが人の「声に耳を傾けている」のであれば、それは「声を上げる人」「声を上げようとする人」の意思や力、存在を肯定する行為となり、あなたは大変重要なことをしているということになります。
「大げさ」に聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。
その積み重ねが「声を上げる」人を育てていくからです。
ただし、繰り返しますが、逆(耳を傾けないということがいかに重いことか)もまた然りであることを改めて残しておきます。
※このあたりのことは、次の記事で触れる予定です。
「声を上げること」が「身近なこと」であると知り、今現在の環境を振り返りつつ、自分にできる「声を上げる」(または声を聴く)について、少しでも考え取り組んでいく仲間が増えていくといいなと思っています。
誰かの「気づく」にきっとつながる
もうひとつのレンタルビデオ店での経験を挙げた理由についてですが、これも結論から書くと、「変化はすぐに起こるものとそうではないものがある」ということを共有できたらと思ったためでした。
コロナ禍のような大きなインパクトは、物事を劇的に変化させます。
コロナ禍によって、リモートワークが当たり前になり生活様式もガラッと変わりました。
コロナが落ち着いても、「元に戻らない」変化というものは必ずあり、この点は多くの人が実感していることではないでしょうか。
一方で、なかなか変わらないということも世の中にはあります。
以前書いたことがありましたが、たとえば「選択的夫婦別姓制度」kotaro-tsuka.hatenablog.com
は
選択的夫婦別姓「国会で議論」いつになるのか 四半世紀が過ぎても実現せず:東京新聞 TOKYO Web
によると1970年には話に出ていたとのことです。
この間およそ四半世紀(以上)「議論が必要」などと言って後回しにされ続け、未だに実現せずに時間だけが過ぎています。。
私のレンタルビデオ店での経験も結局は「変わりません」でした。
しかし、これをもって私の行動を「意味のない」こととして切り捨ててよいものなのでしょうか。
私はそうは思いません。
なぜなら、まずは「知ってもらう」だけでもいい(本当は「いい」と言いたくないですが)と考えるためです。
私の問い合わせに対応した人は、私の問い合わせを見たことで「こういう考え方もあるのか」とほんの少しは思ったのではないかと思います。
「めんどくさい客だな」と思われたのが実際かもしれませんが、それでもその「声」を目にしましたし、「お客様からこういう声がありました」と上司なり、誰かひとりには伝えているのではないだろうかと思います。
もしかしたら、誰かとの愚痴を言い合う席で「こんなめんどくさい客がいてさ…」と話題にされる可能性だってあります。
その時にその中に誰か「気づく」人がいたら、そこで世界が少し変わるはずです。
対応をしてくださった方が本屋に行ったときに、先ほど載せた絵本をたまたま目にして、ピンとくる可能性だってあります。その人が変わって、世界が少し変わるということも考えられます。
…ちょっと夢見がちでしょうか笑。
これらが私の希望的観測であることは正直否めませんが、でも変化というのは「知られること」と、誰かの「気づき」からはじまるということもあるのではないだろうかと私は思っています。
本当に変わらないのだろうか…
ここで、上記がただの私の希望的観測ではないということについて(しつこい笑)少し書いておきたいと思います。
2019年に『日本社会福祉学会フォーラム』に参加してきたときのことです。
当日のシンポジストであった『認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやい』の大西連氏が質疑応答の場でこのように(原文通りでなく私の記憶の中であること―乱雑なメモ書き―をご容赦ください)言われていました。
(誰かに理解してもらうことについて)簡単なことではないですが、それでもこの10年日本に貧困がないと思う人はいなくなったと思うんです。
貧困というと、日本のことではないと思われていたけど、伝え続けることによって、潮目で変わる可能性があります。
大西氏が言われるように、少なくとも私は、かつて「貧困」と聞くと、途上国で餓死をする子どもという痛ましい光景を思い浮かべがちでしたが、今は日本の目の前の出来事として思い浮かびますし(途上国のことを忘れたという意味ではない)、「貧困」は遠くではなく目の前に「ある」ということを理解しているつもりです。これは私だけではないのではないだろうと思います。
現場の方はそこに至る(変化する)までに10年がかかったと言っているわけです。
これは「伝え続ける」人がいて、「知られ」、「気づく」人がいるという小さな積み重ねがあって生まれていったということではないかと思います。
もうひとつ挙げておきますと、これはつい先日のことです。
盛岡大学の遠藤可奈子教授の講演をお聞きする機会があり、そこで炎上CM問題についての話がありました。
※この話はおそらく『炎上CMでよみとくジェンダー論』の引用かとは思います(当日この本をご紹介されていたため)。CMの内容や問題点については割愛します。
遠藤教授によると、昭和50年代に炎上した『私作る人、ボク食べる人』というCMの時は、「女性が作る人なのか?」という女性からの批判が大きかった一方で、男性からはそれが当たり前というような反応があり、逆切れされるということがあったと言います。
それから40年近くあと、平成24年に放送された『日本のお母さん』というCMでは「とんでもない」内容だと思った人と、「感動した」という人とで賛否両論に分かれたと言い、その3年後、平成27年に放送された『働く女性たち応援するスペシャルムービー』では女性だけでなく男性からも批判が起こったそうです。
もちろん、その理由には内容があまりに酷いといったことなども影響はしていると思います。
しかし、少しずつではありますが、この「おかしさ」に「気づく」層が増え、それが「知られて」いっている(特に男性に)ということと言えるのだろうと思います。
それは「声を上げる」人たちが、「声を上げ続けた」ためでしょう。
そのことを改めて確信させてくれたのは、上記の講座で同大学の嶺岸玲子准教授の話でした。
嶺岸准教授はご自身の経験談を含めて、
自分の人生を他人がコントロールすることのおかしさ
について言及し
マイノリティへ、心を砕いてほしい
というメッセージを残されていました。
嶺岸准教授がそのように考える(そうしたメッセージを送る)ようになったのは
トランスジェンダーや同性愛者が声を上げ始めたこと
であったと言います。
存在が「知られ」、「気づく」層が増え、「考え、声を上げる」人が増える。そのことによって「変化」していく。
これはまるでカタツムリが這うかのようなスピードで起こることかもしれませんし、行きつ戻りつ(揺り戻される)するような動きかもしれません。
それでもそれは確実に「変化」だと言えるのだろうと思います。
そして、私たちは「声の上げ方」も「変化」していくのでしょう。
歴史を紐解くと、私たちはかつて百姓一揆という「声の上げ方」をしてきました。
私は百姓一揆なんて、歴史上の話としてしか頭にありませんでしたが、岩手県にある『田野畑村民俗資料館』の『三閉伊一揆』を目の当たりにして、単なる歴史上の話ではなく、今につながる人びとの強く生きてきた力だったのだと捉えるようになりました。(これもまた私の「変化」ですね)
百姓一揆では、一揆の首謀者が処罰されてしまうという悲劇が起こってしまうことがあったために、円型に名前を書くことで誰が首謀者かわからなくするという工夫をしてきたと言います(その写真がフォルダにはなぜかありませんでした…見つけたら後日載せます)。
→この件は『西和賀町歴史民俗資料館』に訪れた時に見たものの誤りでした。写真を載せておきます。
声を上げながら、その方法を「変化」させてきた歴史です。
現在はTwitterを使ったデモやネット上の署名活動なども展開されていますね。
ネットの世界では「エコーチェーンバー」と言われる現象があり、狭い世界での発信に留まってしまうという課題が出てきているわけですが、それでもその声の集合体を政治も無視できなくなりつつあるように思いますし、それをもとに違う方法を考える人たちが多く出てきています。
「声を上げれば」必ずしも何かがうまくいくというわけではありませんが、変化した先に「公正」が待っているのであれば、試行錯誤しながら、なかなか変わらない現状に悔し涙を流しながらも「声を上げる」ということには、価値はあると言えるのではないでしょうか。
「声を上げる」ことは、次の加害を防ぐことでもある
最後に、「声を上げる」ことにおいて、私が重要と思っている考え方を載せておきます。
これまた結論からお伝えすると「被害を無視するということは、次の加害側に加担することになりうる」という考え方です。
これは少し厳しい言葉に聞こえますが(声を上げないことを非難する意味ではないですし、当事者においては声を上げたくても上げられないということもあり、またそもそもそうした事態を生み出す側に明らかな非があることは前提です)「声を上げる」上で大事な考えであるように私は思っています。
ホテルでの「部屋が臭い」という経験において、私は「被害者」でした。
被害者であった私には「臭いを我慢をする」という選択肢も当然ありました。「被害」を無視するという選択肢です。
しかし、私がもしここで声を上げなかったから、次の人もこの部屋をそのまま利用するでしょう。
もちろん、私たちが利用したあとに掃除が入って、部屋の臭いが改善される可能性もあります。
でも、私たちが利用する前にも部屋は掃除していたはずであり、それなのにこの臭いだったということは、私たちの次にこの部屋を使う人もまた「我慢」をすることになるかもしれませんよね。
もし私が声を上げなかった場合、次にこの部屋を使う人は「前にこの部屋を使っていた人(みんな)も我慢して使ったのだろうから、私たちも我慢しようか」と思うかもしれません。これは私がその方を「我慢」に巻き込んでしまったと言えなくもありません。
私が声を上げなかったのに、次にこの部屋を使う人が声を上げていたら、ホテルマンは「昨日利用したお客さんは何も言わなかったのに」と思って、その方の声を「わがまま」と捉えてしまっていたかもしれません。
仮に、私が声を上げてもホテル側が動かなかったとしても、それは無駄に思えるかもしれませんが、次にこの部屋を使う人も「声を上げていた」としたら、ホテル側もさすがにその部屋を使用禁止にするか、その対策に本腰を入れる可能性も出てくるだろうと思います。
…考えすぎかもしれませんが、私が被害を無視していたら、次の人に不利益を被らせてしまうといった構造があるのだと思います。
私が声を上げなかった場合には、私の中でこのホテルは「泊まりたくないホテル」として記憶され続けるため、「あのホテルには泊まらない方がいい」というある種の加害側に立ちうるという見方もできるかもしれません。
レンタルビデオ店での経験においては、私が「声を上げた」ところで何も変わりませんでしたが、声を上げなければ(少し傲慢な表現ですが)変わるきっかけすらないままであっただろうと思います。
私が声を上げないことは、子どもたちの最善の利益を守ろうとしない大人の一人という加害側に立つことになります。
そうやって声を上げる大人の姿をもし子どもが見てくれたら、そういう大人の存在を間接的に知ってくれたら、変化がなくても、「声を上げる」ことの大切さや「声を上げてもいいんだ」と理解してくれる子どもも増えるかもしれません。
それはきっと次の「変化」を促すだろうと思います。
ひとつ注意しておきたいのは(前提の話でも書きましたが)この考え方はともすると自責の念を覚えたり、罪悪感を感じてしまったりすることにつながりかねない考え方だと思います。
したがって、無理をしてはいけないですし、もちろん、「声を上げられない」こと、また、「変わらない」ということはあなたが悪いわけでは決してないと知る必要があると思います。
また、本来、当事者・被害者にそれを強いることはおかしいことだと思います。
当事者・被害者以外の立場で、「声を上げた方がいいのでは?」と気づくことができる人。
「声を上げないと!」と思う場面に遭遇することができている人。
その人の中には「私」もいて、すべての「あなた」もいるわけですが、「声を上げる」ことは次の被害だけではなく、次の「加害」を防ぐことにもなり得るのだと思います。
繰り返しになりますが「声を上げる」ことは「身近なこと」でもあるため、一緒にランチをする友人や信頼できる大人に「これどう思う?」と言うことも「声を上げる」です。
まずはほんの少しの“それ”でもいいので、そこからはじめていけたらと私は思います。
ここまで(偉そうに)「声を上げる」ことについて書いてきましたが、一方で日本財団
日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」(9カ国調査) | 日本財団
(第20回2019年)によると「自分で国や社会を変えられると思う」人は5人に1人であり、数字の低さが際立つ結果となっていることが指摘されています。
この現状について思うことを、次の記事では書いていきたいと思います。