中学生への自殺対策授業のまとめ―思春期の子どもたちへの思いと、実施後の子どもたちの声および私の感想
中学校で行った自殺対策授業内容について、これまで細々と記事にしてきましたが、この内容に関する記事はこちらで終わりとなります。
ここまでお読みくださったみなさま、どうもありがとうございます。
最後の記事では、この授業の最後に私が中学生へお伝えしたこと、そして、4つのテーマを扱った理由に改めて触れ、子どもたちからいただいた声、私自身の感想についてまとめていきたいと思います。
思春期を生きるということ
今回のこの授業は中学生全学年に向けて、同時にお話をさせていただく形式で行われました(体育館に集まる形式)。
コロナ禍で休校になるなど、時間制限が生じたことなどからそのような形式で行われることになったようで(中学生は学年ごとにずいぶん色や課題が違うものですが)
思春期真っただ中で身体や心の変化を様々経験している子どもたち全体に向けて、内容を構成してみたつもりでした。
そのため、私は4つのテーマを話し終えた後に「思春期という時期を過ごしているみんなに」というお話を少しだけする時間を設けました。
私は最初に子どもたちにRPGゲームを思い浮かべてもらって、このようにお話しました。
「思春期というのは、高価な武器や鎧などを簡単に買うことができないのに、めっちゃ敵やイベントが出てくる時期」
中学生の子どもたちはまだ、自身で稼ぐ術も車を運転してふらっと出かける権利も持ち合わせていません(最近はYouTubeなどで収入が得られたりとかもあるとは思いますが一部と言えるかなと思っています)。
学校に行く時間を選ぶことも、好きな習い事を自分のスケジュールに合わせて通うということもままならないかと思われます。
つまり、自由で融通の利く(高価な)ストレス解消の方法(武器)や、自分を守る方法(鎧)を簡単に選べない、入手することができない状態と言えると考えます。
それにも関わらず、中学生になった途端に、上下関係が生じたり(それもかなり厳しかったり危険が伴う可能性もある)、部活動がはじまってハードになり、勉強も高度なものになって受験や進路を考えることが迫られるようになります。
これは敵やイベントがたくさん出てくると言えることであり、その敵やイベントには結構きつい(と人によっては感じる)ものも出てくると言えるように思います。
上記したように思春期は身体や心の変化が伴うものであって、不安やイライラがつきまといますし(しかも本人もなぜかわからない類のもの)、悩みごとも増える時期です。
プレッシャーを感じる場面も増え、戸惑いや焦りを感じたり、トラブルや失敗をしてしまうことも多いでしょう。
他人からの目線が気になるようにもなり、人間関係も複雑になるものとも言えます。
思春期というのはそもそもそうした「大変な」時期であるのですが、それを知らされずに、適応できることが自然なことと暗黙の了解でなっているように私には思えます。
思春期にはいろいろな思いが過ぎり、いろいろなことがあって当然なのですが、そのことに察しが悪い大人も多くいるという方が現実であり、学校では特に、統制された秩序ある集団をつくるために子どもたちの思いを抑圧させてしまう可能性もあるというのが私の考えです。
私は子どもたちにそうした察しの悪い大人もいるであろう現実については謝り、でも、信頼できる人の存在、そういう人と出会えることを諦めないでほしいということをお伝えしました。
私の思春期と人生の妙
その後、私の思春期と人生の妙についても大雑把にお話をしました。
私は中学生の時、今思えばいつもソワソワしていたし、いつもどこかイライラしていて多くの不安を感じながら過ごしていました。
そして、高校生になって人生で初めて挫折を経験し、「死にたい」「消えたい」と思う日々を過ごしていました。
こうした経験を自分がすること、こんなことを自分が思う日がくるとは微塵も思っていませんでした。
そんな経験をしていくうちに「人間は意外と傷つきやすいし、この世界には傷つくことが結構あるものだ」と気づくことができ、人の痛みを大事にしたいと思うようになり、
信頼できる存在である恩師に大学に入って(ようやくー今までの先生には申し訳ないけど笑―)出会うことができ、岩手とのご縁を得て、今こうしてお話をさせてもらっている…その人生の妙についてお話させていただきました。
人生は何が起こるか、何がどこにどのようにつながるかわからないものであり、世界は知らないことだらけであること、今日の話が決して“絶対”ではなく、まだまだいろいろな物事の見方や考え方があるということもお話しました。
そんな世界を、今を、不安に思いながらでいいし、周りと比べながらでもいい、助けを求めながら、時に手を差し伸べながら、知らないことだらけの世界を生きてもらえたらと思っている、そんなお話をして授業を終えました。
子どもたちの声
授業後、子どもたちは感想を書いてくれ、後日私のもとにもそれが届きました。
これまでの記事を見てくださっている方はお察しかと思いますが、、子どもたちにとってはやはり意味がわからない時間でもあったようで(笑)、様々な感想がありました。
一部、そのことをきちんと書いてくれている感想があったので、ここに載せさせていただければ、
「何をテーマに話しているのかが途中でよくわからなくなってしまい、話が頭に入ってこなかった」
という感想や
「あまり「命の授業」という感じではなかったと思いました、なのでもっと「命が大切だ」という授業をしてほしい」
という感想がありました。
後半の感想については後で触れようと思いますが、私自身の至らなさをとても反省する感想でした。
一方で、
「相談することは恥ずかしいことじゃないこと」
「自分にとって当たり前のことが他人にとっては当たり前ではないということ」
「自立をするとは自分ができないときに誰かに助けてと言えることというのが本当の自立ということが印象に残った」
「自分には合う人と合わない人がいるんだってことを覚えておきたい」
といった感想もありました。
私が今回
①「みんな仲良く、いつも元気に」
②「人と比べず、個性を大事に」
③「人に頼らず、自立をしよう」
④「強く生きていこう」
という4つのテーマを持ち出して、違う見方をしてみようと設定したのは、子どもたちの中にある(あるいは刷り込まれている)「当たり前から一度出てみること」を経験してほしいと思ったためでした。
いつも仲良く元気にいなくてもよくて、なるべく傷つけあわずに暮らせること。
人と比べても別にいいし、そのことで自分をダメだと思わなくてもいいこと。
人に頼ったり相談したりすることを通じて、自立というものが見えてくること。
マッチョ的な強さだけでなく、多様な生き方があり、逃げてもいいし泣いてもいいこと。
これらはおそらく、子どもたちが教わることのないことであり、そのことに触れてもらい、視野狭窄に陥らないでいられる力、多様な視点をもって生きていく力、ガチガチなつながりではなくほどよくつながっていられる力を身に着けてもらえたらと思ってお話したところです。
子どもたちの上記した感想は、そのことが伝わっているかもしれないと感じられる内容であり、少しでも子どもたちの力に役立つことができていれば大変うれしい限りです。
もうひとつ、自殺対策ということにもっと焦点を当てて、今回の授業を振り返ってみた時に、とても大事な気付きを与えてくれた感想がありましたので、載せさせていただきます。
それはどのような感想かというと
「私は人と接するのが苦手なので命の授業で人に相談したり話しかけるのに何年かかってもいいことがわかってちょっと安心した」
というものです。
上記したように、今回この授業を「意味が分からない」と感じた子どもたちも一定数いたと思われます。
「もっと「命が大切だ」という授業をしてほしい」とありましたが、授業後、そういう声が大人からも実はありました。
私の至らなさについては心底反省していますし、このことについて言い訳をするつもりはありません。
しかし、偶然にも、自殺対策についてとても大事な指摘をされている文章と出会ったのでここで引用します(少し長くなります)。
精神科医になってはじめの頃、ある学校に薬物乱用防止教育の一環として、講演に行ったことがある。
薬物がどんなに害があるのか、一回やると止まらないこと、手を出したら廃人になること…壇上に立って、学生たちの前でそんな話をした。
9割の子が「薬物の怖さがよくわかった」「人生何があっても自分は薬物を使わない」「薬物を使うのはバカげている」といった期待通りのことを書いてくれた。
だけど、自傷経験のある1割の生徒たちの答えは、僕のやり方を考え直させるものだった。「薬物は、自分の体を傷つけるだけで人を傷つけるわけじゃない」「薬物をやりたければ、勝手にやればいい」そんなことが書かれていた。
一緒に行ったアンケート調査で、全体の1割は、リストカットやお酒を飲んだり、タバコを吸ったり、市販薬の乱用をしていたのが明らかになっていた。さらに拒食や過食といった摂食障害の傾向を持つ子も多かった。
実は、10代でこういった経験のある子たちは、成人した後に違法薬物に手を染めたり、アルコール依存症になるリスクが高いことがこれまでの研究で分かっている。
本当に伝えなくてはいけない1割に、まったく届いていなかった、っていうことに(呆然とした)。9割の子は、僕の講演なんて聞かなくたって、このクリーンな日本という国にいれば、おそらく将来も薬物の危険はないと思う。
僕ら大人は、自分たちの求めているもの、こうであってほしい、という姿を勝手に子どもに押し付けているだけだったのかもしれない。
ものを教える立場にいる大人は、きっと学生時代も勝ち組にいて、居場所がない子のことをうまく想像できないんだな、と思った。「ダメ、ゼッタイ」ではダメなんだ。
これは『「死にたい」「消えたい」と思ったことがあるあなたへ』という著書の中にある、精神科医で子どもの薬物問題や自傷行為などが主な専門である松本俊彦先生が書かれた文章です。
表現が相応しくないと思いますが、百戦錬磨であろうと思われる専門家の先生の失敗体験と気づきがそこには綴られており、同時に、自殺対策を考えるうえで本当に重要なことは何かが綴られているように感じさせる、そんな文章であるように私は思いました。
私の至らなさはもちろん前提に置いた上で書きますが、今回の授業が「意味がわからなかった」子どもたちはきっと「(いまは自殺を考えていない)大丈夫な子」であり、松本先生のお言葉を少しお借りすれば、私の話を「聞かなくても(ある程度は)よかった」子どもなのかもしれないと私は感じています。
薬物の問題と違うのは自殺対策≒「死にたい」と思うことは、人生で一度や二度は誰もが思うことであるという点であり、正確には「聞かなくてもよかった」子どもという表現は相応しくないのかもしれないと思われます。
ただ、「意味がわからない」と思った子はおそらく、「いま」は「死にたい」などとあまり思う可能性がない状況にいる子どもであり(当時の私のように)いつかそういう危機があったときに、この話のどれかが支えになったらいいとそう思うのです。
今回の授業を通じて、「人と接するのが苦手」という子が「焦らなくてもいい」と感じてくれたこと。
そのことに大きな価値があると考えてもいいのではないか。
そんな風に私は感じ、勉強させてもらったと思っています。
中学生の自殺対策を改めて考える―今回の授業の感想を通じて
今回とても貴重な機会をいただけたことに、私自身は深く感謝しています。
子どもたちにとって本当によいものだったかどうかについては反省して、検証していく必要があると思いますが(ご意見いただければ幸いです)、ひとりでも肩の力を抜いて生きていけることにお役にて立てていたなら、そんなにうれしいことはありません。
この記事の最後に、改めて、中学生の自殺対策において大事だと思っていること、私自身が今回の授業を通じて感じたこと・思ったことを書きたいと思います。
自殺対策授業に関する最初の記事で、子どもたちの環境にある閉塞感について書きました。
また、視野狭窄に陥らないようにすることが大事であることも、繰り返しこれまで書いてきた通りです。
書き忘れていましたが、今回の授業で私はあるルールを設けていました。
そのルールとは
・いろいろ尋ねますが、答えたくないときは答えなくていいです。「パス」って言ってください。
・誰かや自分の心・体を傷つけなければ、何を言っても否定や助言をしないでください。(敬語は使うにしても「先輩がいるから」とかはなしです)
というものでした。
ちなみに、「「わけのわからない」50分になると思います。肩の力を抜いて参加してくれたら嬉しいです。」とも最初に示していました笑。
また、コロナ禍であることもありましたが、自分の気持ちや意見は紙に書くようにしてもらい、書くけど見せたくなかったら見せなくてもいい、ということで授業を行いました。
このことについて、授業終了後に「なぜそのようにしたのか」ということを大人に問われました。
「もっと子どもたちに話をさせてほしい」という文脈での問いでした。
私は「子どもたちは正解を答えないといけないと思っていると思うので、ここではそうではないので自分の意見を大事にしてほしいためです。また、答えたくない!と思ったことについては答えなくてもいいという選択肢があって、それが尊重される経験をしてほしいためです」と回答しました。
私が問いかけられたこと自体やその内容の意味はとてもよくわかりますが、私の回答に対して納得をされていないような反応が見られ、その時、私は子どもたちの大変さ・閉塞感を思いました。
それ以外にも今回の授業を通じたあらゆる経験は、子どもたちの環境について(の問題点)、多くのことを私に感じさせました。
それを踏まえて、子どもたち(中学生)にとって大切な自殺対策とは何かと考えた時に「命を大切に」という精神論ではないということは、確実に言えることであると私は考えています。
それが「絶対に自殺を防がない」とまで言うつもりはありませんが、「命を大切に」と言いたいのは誰なのか、どんな立場の人がどんな立場の人にそれを言うのかを考える必要はあると思います。
子どもがそういう話をしてほしいと求める声もありましたが、それは大人が「命の時間」というものを作り、そういう話を聞く設定をしているためだと思います。
そういう話が好きな人(子ども)もいるだろうということは、その通りと思います。
しかし、残念ながら、それで自殺が防げるということは考えにくいです。
なぜなら、「命が大切」や「自殺はしてはいけないこと」なんてことは、誰だってわかっていることだからです。
必要なことは、「命が大切」なのになぜ私はいじめられるのか、殴られるのか、大切にされないのか…ということが起こっている現実に真剣に向き合い、すべての子どもたちに逃げる選択肢が与えられ、安全で安心できる存在や場・人生が保障されることです。
必要なことは、「(自殺はしてはいけないことなのに)死にたい」と思うその気持ちを言うことのできる、安全で安心な場・人・地域・社会が創られていることです。
子どもたちの自殺の問題や生きづらさは、心の問題「だけ」のものでは決してありません。
もちろん、思春期特有の心理状態などが影響していることは否定できないと思いますが、身体の痛みがないか、不安を共有できるつながりがあるかどうか、信頼できる大人が周りにいるかどうか、男女が平等に扱われているかどうか、人間関係を強制されていないかどうか、「ふつう」であるように力を行使されていないかどうか、偏見や差別にさらされていないかどうか、弱さが大事にされる空間にいると思うかどうか…
そういうことが大きく影響していると思います。
その現実に目を向けて改善していくことこそが、子どもたちの自殺対策において重要なことではないかと私は思います。
年に何度か、心の健康を測るアンケートを取って大丈夫かどうかを判断する。
子どもたちに援助希求能力向上のスキルを教える時間を持てば、大丈夫。
道徳で命の大切さを伝えているから…。
こういうことをよく耳にします。
これらを全否定するつもりはありませんが、もっと子どもたちの日常に目を向ける必要があるように、私は今回改めて感じました。
心の問題だけで自殺対策はできないし、形式的なもので子どもたちの自殺の問題・生きづらさに触れることの限界に、私たち大人は敏感である必要があると思います。
実際に本当にしんどい時に助けを求めに行くというのはかなり困難なことであり、加えて、その時になって助けを求める先を見つけるということは(痛みを悪用する人もいることを含めて)かなり難しいことです。
スキルは大事ですし、道徳で様々な人の生き方に触れることも大事だとは思います。
でもそれよりも大切なことは、日常で自身を大事にする経験を重ねることで、困っている他者の話を一生懸命聴こうと思える存在が育つこと、「自分の命が大切」にされる経験を積めることではないかと思います。
どれも子どもたちの日常に織り込まれていることが大切と言えるものです。
それを特別な扱いにして「子どもたちには伝えていた」とし、何か問題が起きたときにはそれは子どもの未熟さに焦点があたる、自己責任とされる…もうそういうこととは決別しないといけないと思います。
今回の私の授業でこれらが網羅され、メッセージとして届いていたとはとても思えず、偉そうなことを言いながら自身の力の無さを情けなく思っていますが、子どもたちの日常をどのような日常にしていくのか、子どもたちに何を大切にしてもらいたいのかを考え続け、教わり続け、子どもたちと共に変え続けていくこと。
そうしたことが、子どもたちの自殺対策において何よりも大切なことであるのではないかとこの機会を得て全身で感じました。
子どもたちがよりよく生きていくことができるような何かにお役に立てるよう精進していくことを誓い、記事を終えたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございます。