kotaro-tsukaのブログ

社会の構造によってつくられる誰かのいたみ・生きづらさなどに怒りを抱き、はじめました。「一人ひとりの一見平凡に見える人にも、それぞれ耳を傾け、また心を轟かすような歴史があるのである」(宮本常一)をモットーに、ひとりひとりの声をきちんと聴き、行動できる人になりたいです。このブログでは主に社会問題などについて考えることを書いていく予定です。

「若者の投票率の低さ」を反省的に考える②教育現場と広い意味での教育について

前回「若者の投票率の低さ」を反省的に考える①として、問題点と仕組みについて考える記事を書きました。

kotaro-tsuka.hatenablog.com

この記事では『大人の問題としての反省…今すぐにできること・すべきこと@仕組み編』という題で、投票の仕組みや方法の改善点などについて言及しました。

今回はその続編の意味合いで『教育編』を書きたいと思います。

 

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学ぶことをやめない

 

 

 

大人の問題としての反省…今すぐにできること・すべきこと@教育編

仕組み編では「若者の投票率の低さ」を緊急課題として、すぐにでも大人が取り組むべき改善点について言及しました。

こうした話がニュースなどで全然されていないことを鑑みても、大人たちが怠惰なままでいることが明らかになっているように思い、深刻な状況であることを感じています。。

ですが(残念なことに)ここからはさらに深刻と感じる…大人が取り組むべき教育(広い意味での教育を含む)について考えたいと思います。



教育現場で最低限取り入れるべきこと

教育現場の問題点として、「みんなで一緒に」という風潮の強さや偏った刷り込み教育、隠れたカリキュラムなどについて書きました(しつこいですが詳細は前回の仕組み編の方のご確認をお願いいたします)。

教育現場は本当に大変だと思う中で問題ばかり上げてしまって申し訳ない気持ちと…とは言え、「変わらないとダメだろう」という危機感とが私の中で混ざり合ってい書いた次第です。

その中で、教育現場で最低限このことには取り組んでもらえたら…と思うことについて書きたいと思います。

 

自治の経験の機会を保障すること

まずは、子どもたちが主体的な存在であるということを教員が理解し、自治の経験の機会を保障することです。

子どもの権利条約には4つの原則があり、そのひとつに「意見を表明し参加できること」が定められています。

これは

子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します。

という内容であり、すべての子どもに保障されているものです。



デンマークの学校ではコの字型に机を配置している学校もあるという話を前回の記事で書きましたが、そこまですることは難しいにせよ、子どもが自由に意見を表すことができ、子どもの意思が尊重されやすくなるためにはどうしたらいいかについて、ハード面からソフト面まで、学校現場にはぜひ検討していただきたいと思います。



つい先日行われた『Learn by Creation NAGANO プレーヤーズコネクト 2021』において、『違いの味わい方 “みんな違って、みんないい”の半歩先へ』で登壇されていたインクルージョン研究者である野口晃菜氏は「どういう学校にしたいかを子どもたち自身が決めていく」学校の例を話していました。

その学校では、たとえば、いじめをなくしたいと子どもたちが考えて、その方法も考え実行に移していくという経験をしているということでした。



そうした経験、つまり、自治の経験の積み重ねを子どもたちができれば、「社会を変えられない」という無力感を抱くことも少なくなるのではないだろうかと思います。

それは先に書いた子どもの権利が保障されているということでもあり、子どもたちが「人権」や「権利」について学ぶことができるということになります。それは、しいては「参政権」を体感として理解するようにもなると言えるのではないかと考えます。

学校や先生という身近な大人をはじめ、社会が不完全であることがわかり、「批判」も不完全な社会をよりよくしていくために必要なものだと理解するでしょう。

それが政治であるということを子どもたちが学ぶ機会が保障されるといいなと思います。

そうした学びが保障されれば、「若者の投票率の低さ」を憂うことは少なくなり、そもそも「若者の投票率を上げよう」などと上から目線(自覚しています)の物言いをする大人もいなくなるのではないかと思います。



隠れたカリキュラムの是正に向けて

日常の中に多くあるバイアスを、学校・教育現場だけなくすなどということは到底無謀なことなのですが、それでも学校は学ぶ場であることから教育現場に携わる人たちは学び続けねばならないだろうと思います。



私たちは誰もが偏見を持っています。

しかも厄介なことにそれは無意識に持っているものであるため(今度書けたらと思っています)、その自覚を大人―特に教育現場に携わる大人―はきちんと持つことが重要になります。

なぜなら、子どもにとって学校の先生や親という身近な大人はある種「絶対」だからです。

「絶対的な存在が言うことに間違いはない」と子どもたちが思ってしまう可能性を想像しながら、偏りがあることを前提として(わからない、ということを含めて)オープンに話をする機会を設けてもらいたいと思います。

 

また同時に、学校にはぜひ外からの風を積極的に入れてもらいたいと思います。

「隠れたカリキュラム」はその名の通り、「隠れている」ので内側から見ても気が付かないことが多くあります。

外から見た時、違う文化との交流があった時などに「隠れている」それが発見されるということはよくあることで、その発見があるからこそ、よりよいものにしていくことができるのだと思われます。

保守的な閉ざされた空間となりやすいのが学校・教育現場かと思いますが、どうか閉ざされた空間でなくなってほしいと思います。

そうすることで、学校も先生も完全ではないという気づきを子どもたちも感じられるでしょうし、「おかしい」と気づく力、気づいたときにそのことについて「声を上げていい」と思う力にもつながるのではないかと思います。

外からの風を入れつつ、大人も共に子どもたちと気づきを重ね、学び続けることもとても重要と思います。



ここまで、大して知りもしない教育現場の話(しかも理想的な世界の話)をしてしまいました。

現場の皆様には「わかった風に言いやがって」と不快な思いをさせているかもしれませんね。すみません。

学校では部活もあり、イベントもあり、修学旅行もあり…と、あまりに忙しい中で先生方が奮闘されており、できることが限られてしまっているというのが現状かとは思います。

個人的には部活動の時間を減らすべきだと思いますし、イベントも練習をそんなにする必要もないでしょうし、クラスの人数の規定と先生の配置数・先生への待遇も見直されるべきではないかと思っています。

教材で使われる作品のジェンダーバランスもしっかり考えてほしいですが、このあたりにきてしまうと保守的な「上」に問題があると考えられるわけですしね(このこともまた書きたいと思っています)。。

ここではその点についてスルーして願望を書いてしまったことをお詫びしつつ、それでもできることがあるのでは?ということで、上記二点のみ書かせていただいたということをご理解頂ければ幸いです。

そしてここからは、教育というものをもっと広くとらえて、ひとりの大人としてすべきことについて書いていきたいと思います。



政治に関心のない人を生まないために、関心のない人とつながるために

『政治をもっと身近に!~U30の声を聞いて一緒に考えよう(以下、U30の声)』では、多くの若者が当日のイベントに参加しており、中には普段から政治の話をしたり、政治に関するテレビ(地上波ではないもの)を見たりしている若者もいるということが話題に上がっていました。

それは素晴らしいことですし、希望を感じたのですが、一方そこで私が感じたのは、やはりそもそも政治や社会問題に関心のある人たちがこうしたイベントなどに集まるのだよなということでした。

そうした人たちが誰かに伝えることで「変化」が生まれるということは、「声を上げること」で書いたので省略しますが、それもとても大切なことでありつつ、政治に関心のない人を生まない(極力少なくする)ためにはどうしたらいいか、関心のない人とつながるためにはどうしたらいいかというあたりを考える必要があるように思います。

ここでは教育現場に限らず、すべての大人がすべきこと(教育)について考えてみたいと思います。



意思決定の場に就く人を多様にし、若者の声を大人がきちんと聴くこと

以前、「若者の投票率の低さ」について意見をくれた方がいたため、記事にまとめたことがありました。

kotaro-tsuka.hatenablog.com

その意見には

政治家にいいイメージがありませんでした。

政治家といえば、失言、不正、おじさんばかりで難しいことを言っているという偏ったイメージでした。

といったものがあり、『U30の声』でも

政治はおじさんがするものというイメージ

があったと話していた人がいたように思います。



言うまでもなく、日本の政治家の多くは高齢男性ですね。

政治家だけでなく、多くの業界で「上の立場」にいるのは男性がほとんどだろうと思います。

まず私たち大人はこれを変えないといけないでしょう。

「隠れたカリキュラム」の話をしたように、そうした偏った傾向は間違いなく子ども・若者たちに刷り込みを与えています。

この意識を私たち大人が持ち、具体的に変えていかないといけないでしょう。



また、今の時代に求められているリーダーシップ像にサーバント・リーダーシップというものがあると、政治学者である宇野重喜氏は『未来をはじめる~「人と一緒にいること」の政治学』で言います。

 

 

サーバント・リーダーシップというのは

あなたはどう考えているのだろう?と聞いてあげられる人

のことを指します。

『仕組み編』で書きましたが、どのような動線上に若者がいるのか。

どうしたら投票をしやすくなるのか、したいと思えるのか、「声が反映される」と思えるのか…そういった声を若者から聴くために、若者の考えに普段から耳を澄ます大人の存在が必要なのではないでしょうか。

しかも耳を澄ます大人は高齢男性だけではなく、多様な人が「上の立場」と(自覚も)してすることが大切ではないだろうかと思います。



宇野氏は同著の中で

一人ひとりの個人が、自分をかけがえのない存在として認めてほしいと願っています。自分の声を聞いてほしいと思っています。しかしながら、多くの人の実感は、「自分の存在なんて、誰にも認められていない」ではないでしょうか。「私の声は、どこにも届いていない」、そう思っている人が少なくないはずです。

と言います。

これは若者だけに当てはまるものではないと考えられますが、より声が聞かれにくい(未熟とされ)若者の声にきちんと耳を傾け、自分の過ちや偏見に気づき是正することができる大人の存在が必要なのではないでしょうか。



政治家の声が若者に届くように

これもまた「若者の投票率の低さ」についていただいた意見となりますが、

公約は調べてみたらわかったけど、これまでの実績が分からないから知ることができたらいいのに。

どのような活動をしているのか日頃からもっと伝わったらいいのに。

という声があったことを以前書きました。



政治家が普段何をしているかと言われると、多くの人のイメージでは国会議事堂でヤジを飛ばすか、寝ているかになるのではないだろうかと思います。

TwitterなどのSNSが使われるようになって変わってきているとは思いますが、政治家はもっと何をしているかを発信していき、実績を可視化していく必要があるのではないでしょうか。



これは同時に、広告やメディアの問題でもあるように思います(表現の自由にもつながる話ですがここでは触れないでおきます)。

多数決の問題や在外投票が間に合わないことなど、大問題とも言えるこうしたニュースがメディアなどで全然取り上げられないということを『仕組み編』でも書きましたが、広告業界やメディア業界は変わらないといけないだろうと強く思います。

政治の番組も放送されているとはいえ、政治家の声が若者に届くためにどうしたらいいかを真剣に考えているところがどれほどあるだろうかと率直に思います。



よくネット検索などをしているときに出てくる広告は、それこそバイアスだらけのものだったりします。

こうした広告がもしもっと身近な問題、政治の問題、問題だけでなく学びにつながることであればどれだけ世の中違うだろうかと思います。

日々目にするもので構成されていくのが私たち不完全な人間です。

そのことについてもっと反省する必要があるのではないでしょうか。

少し脱線してしまったようにも思いますが、政治家も広告・メディア業界も、もっと声を若者へ、国民へ届けてほしいと思います。



若者を理解しつつ、批判の大切さを伝えること

これはこれまでに同様のことを書いてきたので短くしますが、若者の声を聴くことで共に学び合い、不完全であることを共に理解し合う。そして、批判を含めて、対話や議論を重ねることで世の中をよりよくしていく。

こういった姿勢を大人が持てるかどうか、というシンプルなことが結局は大切になってくるのだろうと思います。



『ほんとうのリーダーの見つけ方』の著者である梨木香歩氏は

批判って、難癖をつけるとか、文句ばかり言う、ということとは違います。正しい批判精神を失った社会は、暴走していきます。批判することは、もっとよくなるはずと、理想を持っているからできること。

と言います。



言ってしまえば、私たちがこの世を生きていく中で、「人に迷惑をかけない」など無理な話なのだと私は思っています。

迷惑をかけあいながら、どうやって共に生きていくか。よりよく生きていくことができるかを話し合い、考えていくしかないのだと私は思います。

批判は「迷惑」をかけることかもしれません。が、批判がなくなったら、「迷惑」はかけないかもしれませんが、多くの人が生きづらい世の中になるということを、もっと私たちは自覚することが大切ではないかと思います。



政治とは何かを語り続け、大人が学び続けること

『仕組み編』の続編として書いてきましたが、これで最後になります。

記事を分けましたが、ずいぶん長くなってしまったことをご容赦ください(お付き合いありがとうございます)。



最後もまた詰まるところ、政治とは何かを大人が語り続け、大人が学び続けるというシンプルなことが大切ではないか、という話を書きます。

ここでも、この記事でたびたび登場している宇野氏の言葉を引用します(『未来をはじめる~「人と一緒にいること」の政治学』より引用です)。



政治とは本来、互いに異なる人たちが共に暮らしていくために発展してきたものです。



(高校生からの質問)政治とは何かという定義からいくと、友達同士で話しているときとか学級会で物事を決めるときとか、そういうのも政治っていうのでしょうか。異なる利害や価値を持つ人との共生を考えるというと、そういうことでも全部政治に含まれてくるのかなっていう感じがしたんですけれども。

(宇野氏の回答)それも今回の大事なポイントだと思います。僕は政治をそこまで広げていいと思っています。

 

 

そのような(一人ひとりが自由かつ平等であることが大前提であること)自由かつ平等な個人同士が、言葉を交わし、共に秩序をつくっていくためにはどうしたら良いのか、それを考えるのが政治です。



働き方をどうしたら変えていけるか、これを決めるのも政治なのです。

どうすれば男性も女性も自分の人生に合わせて自由に働き方を選んでいける社会にしていけるのか、これを考えるべきです。多くの人が少しでも満足のいく仕事と暮らしを実現するために、社会は何をすべきか。社会として、どのような働き方を目指すか。このようなことを考えるのも、政治の仕事なのです。

 

政治は政治家だけのものではありません。一人ひとりが安心して、希望を持って生きていくにはどうしたらいいのか、このことを考えるのが政治なのです。



著書の中で、宇野氏が「政治とは何か」について明確に言及している部分を引用させていただきました。

私のような素人からは何も言えることはなく、このことを私たち大人が理解できれば、世の中がずいぶん変わるのではないでしょうか。



Global視点での幸福、教育のベースにあるモノ【大人のデンマーク留学見聞録】~びっくり!しかなかった大人のデンマーク滞在日記(以下、Global視点)』では、デンマークの教育の特徴として

教育は子どもだけが受けるものではなく、国民全員の義務であり権利

であるということが話されていました。

日本もこのような認識になるといいなと個人的には思っています。

教育はそれほど大切なものだからです。

最後の最後に、元南アフリカ大統領であり、アパルトヘイトの終焉に貢献したネルソン・マンデラが教育について残した強烈な言葉を載せておきます。

ネルソン・マンデラ:「教育は、世界を変える……」|英語名言ドットコム

The Collapse of education is the collapse of nation — Steemit

 

教育の崩壊は国家の崩壊です。

 

国を破壊するために、原爆や長距離ミサイルを使用する必要はありません。教育の質を低下させ、学生による試験で不正行為を許可するだけで済みます。

 

教育は、世界を変えるために使用しうるもっとも強力な武器である。

 

「若者の投票率の低さ」は、私たち大人のこの自覚、認識の不足を表しているとも言えるのではないでしょうか。反省したいと思います。

次は、それでも(深刻な…)変わらない大人たちやそのバイアス・特権などについて書くことができればと思っています。

お読みいただき、ありがとうございます。