kotaro-tsukaのブログ

社会の構造によってつくられる誰かのいたみ・生きづらさなどに怒りを抱き、はじめました。「一人ひとりの一見平凡に見える人にも、それぞれ耳を傾け、また心を轟かすような歴史があるのである」(宮本常一)をモットーに、ひとりひとりの声をきちんと聴き、行動できる人になりたいです。このブログでは主に社会問題などについて考えることを書いていく予定です。

「みんな仲良く、いつも元気に」という無理難題

更新が滞ってしまいましたが、、中学校で行った自殺対策の授業内容について、細かく書いていきたいと思います。

 

こちらの記事で、

みんなにとっての「当たり前」を一度見直してみよう!をテーマに、

「みんな仲良く、いつも元気に」

「人と比べず、個性を大事に」

「人に頼らず、自立をしよう」

「強く生きていこう」

について、いろいろな角度で考えてみよう!という話を中学生にした。

と書きました。

 

この記事では、①の「みんな仲良く、いつも元気に」について実際に考えてみたこと、私が中学生に提示して一緒に考えたことについて書いていきます。

 

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<a href="https://pixabay.com/ja/users/stocksnap-894430/?utm_source=link-attribution&utm_medium=referral&utm_campaign=image&utm_content=2590616">StockSnap</a>による<a href="https://pixabay.com/ja/?utm_source=link-attribution&utm_medium=referral&utm_campaign=image&utm_content=2590616">Pixabay</a>からの画像

 

 

 

「みんな仲良く、いつも元気に」って当たり前に言うけど…

私はまず生徒たちに、好きな漫画やアニメ、その理由を書いてもらいました。

 

それを隣同士で(見せたくない子は見せなくていい)見せ合ってもらい、一致するグループがいるかどうか尋ねました。

 

目下、鬼〇の刃が大人気なので、全グループ一致するという「まさか」を少し想像しつつも(笑)、一致したのは数10グループあるうちの1・2グループ程度でした。

ちなみに私はワンピースが好きです(いらすとやさんにいらすとがあるので使いたかった(笑))

 

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ワンピース 好きなのはシャンクスだけどなかった…

 

続いて私は、風邪を引いたことがない人、そして疲れを感じたことがない人がいるかどうか尋ねました。

当然、誰一人としていませんでした。

 

これをしてみてわかるのは、好きな漫画やアニメひとつとっても、一人ひとり違っており、それぞれの「好き」や「思い」が一致するということは意外と珍しいことなのかもしれないということ。

そしてまた、風邪をひいたことがない、または疲れを感じない人なんていないのだから、元気じゃないときもあるということではないかと考えます。

 

これを通じて私は、学校で当然できるべきとされている、あるいは、「目指そう」とか「よし」とされている「みんな仲良く、いつも元気に」というスローガン(?)・概念というものは、実は、見方を変えると結構難しいことなのではないかと投げかけてみたのです。

 

なお、「好きな漫画やアニメが一致しない=みんな仲良くは難しい」というのは少し乱暴な論理でして、「みんなそれぞれ好きなものであったり何かに対して感じることは違う」ということと、「どうしても考えや性格、価値観が合わない人もいる」ということを確認しようと、そのようなワークをしてもらったのが本来の狙いです。

 

「みんな仲良く、いつも元気に」を求める学校という組織

前の記事に書いたように、学校というのはたまたま近くに生まれたメンバーで構成された集団組織です。

 

「共通の趣味がある」とか「共通の目的がある」とかいう理由で構成された組織ではないため、当然「話が合う人・合わない人」がいるものです。

そもそも共通の趣味や目的があって集まった集団であっても、合う人・合わない人がいるというのが現実ですよね。

たまたまで構成される集団組織であれば、それはなおのことであると言えるように思います。

 

私は子どもたちが成長し社会に出ていくにあたり、そのことをきちんと知っておく必要があると思うのですが、学校ではなぜか「みんな仲良く」が求められ、それが「絶対よし」とされ、そういった現実を直視することはありません。

 

「違いを克服し、お互いを認めあえれば、みんなわかり合うことができ、誰もが仲良くなれる」という理想がそこにはあるのかと思いますが、それは真理だとしても現実ではなく、この世界で健康に生きていくうえで足かせにすらなる可能性があると私は感じています。

 

現実世界では(残念ながら)多くの人が人間関係に悩み、うつ病などの精神疾患を患ったり、争いは耐えません。

 

このことには様々な背景があると思いますが、「みんな仲良く、いつも元気に」が無理である現実、「世の中には合わない人もいる」という現実を示しているように私は思います。

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合わない人もいる…

 

もっと言えば、その現実があることを無視して「仲良くならないといけない、きっとわかり合えるはず」「いつも元気でいるべき」などという教えにとらわれた結果が、過剰な努力や罪悪感を自身に強いてしまい、そのような現実を生んでいる悪循環があるのではないだろうかと私は考えています。

 

子どもたちに理想を伝えることも確かに大事と思いますが、大人たちですらできていない理想を押し付けるのではなく、「現実」をきちんと知ってもらい、その現実をよりよいものにしていくという姿勢が必要ではないかと思います。

 

傷つけあわないという協力

では、「みんな仲良く、いつも元気に」というのは現実には難しく、「合わない人もいる」という世界で生きていくにあたって、私たちはどのように生きていったらいいかということですが、私はこんな考え方もあるらしいと、以下のような声を子どもたちに紹介しました。

 

「傷つけあわずに共存することがまずは大事」

「自分以外のすべての人は他者であり、自分とは違う考え方や感じ方をする他の人間であると考えてみる」

 

この二つは、社会学者である菅野仁氏の『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマ-新書、2010年)と『友達幻想 人と人の〈つながり〉を考える』(ちくまプリマー新書2008年)から引用したものです。

 

菅野氏は著書で、私がこれまで書いてきたように「みんな仲良く」ということが現実にいかに難しいかを記しており、まずは傷つけあわずに共存することやひとりひとり違う存在であるということから、子どもたちのネットワーク(つながり)について考えていく必要性を指摘しています。

 

続いてこのような声があることを紹介しました。

 

「誰とでもうまくやっていこうなどと思わず、どうしても合わない相手がいるのはやむを得ないと開き直ること」

 

これは、心理学者である榎本博明氏の『「対人不安」って何だろう? 友だちづきあいに疲れる心理』(ちくまプリマ―新書、2018年)から引用したものです。

 

榎本氏は著書で、対人不安や人間の心というもの、あるいは日本人の特徴(文化的なもの)の視点などから、人付き合いの難しさや対人不安を克服するための大切な考え方などを記しています。

 

子どもたちにとって身近な大人は親や学校の先生です。

私が今回お話をさせていただいた学校がある地域は、いわゆる「地方」であり、大学は近くになく、コミュニティも狭いため、外の大人と触れ合う機会が「都会」と比べて少ないだろうと想像がされます(優劣やいい悪いの意ではありません)。

 

そのような生活の中であると、親や学校の先生の言葉が持つ影響はとても大きく、唯一絶対と思っている子どもたちも少なくないと考えられます。

 

子どもたちに限らず、自殺は視野狭窄に陥って選択をするということもあるため、親でもない・先生でもない大人が、子どもたちに違う考え方を提示し、広い世界・様々な考え方や視点があるということに気づくことは、とても大事と考え、今回これらを引用させていただきました。

 

さて、ここで大事なのはその考えを知ってもらうということだけではなく、「では、自分とは異なる他者や、自分と合わない相手」のこと、あるいはその付き合いかをどのように考えるか、ということです。

 

そこに簡単な答えはないのですが、ポイントとして私がお伝えしたのは「合わない人」=「敵」ではないということです。

「自分とは異なる他者」「合わない相手」だからといって、「傷つけていいわけではない」ということが大事ということですね。

 

そのことに気づくためには、私は「私たちは普段協力をし合っている存在である」という考え方がひとつ手助けをするように考えています。

森真一氏は『友達は永遠じゃない 社会学でつながりを考える』(ちくまプリマ―新書、2014年)という著書で、「協力し合っている存在」であることを指摘しています。

 

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協力

「協力」というと、上記イラストのようにケガをしている人に肩を貸すといった、わかりやすい「協力」が浮かぶかと思います。

でもたとえば、「授業中に話をしない」というのは「当然」のこととされますが、実は「話をしない協力」を生徒が先生にしていると考えることができます。

私が今回スムーズに講演ができたのは、生徒のみんなが「座って話を聴く協力」をしてくれていたためであり、そのことを生徒たちに御礼を込めてお伝えしました。

 

私たちは気づいていないだけで、実はいたるところで協力をし合っている存在であり、それでこの社会は成り立っていると言うことすらできる。

そのように考えるならば、私たちは「傷つけあわない」という「協力」もできる存在ではないかと私は思うのです。

 

「みんな仲良く」できるように「協力」することは意図的で「無理をして」行わないといけない部分が多いですが、「傷つけあわない協力」というのは、ほとんどの時間、無意識ですでにできているものですよね。

 

そのことに気が付いて、「みんな仲良く、いつも元気に」とがんばることだけが大事なのではなく、「傷つけあわない協力」ができていることを大切にし、それは最低限今後も「協力」してやっていけるように生活していくということが、意外と大切ではないだろうかと私は考え、そんな視点もあることを提示しました。

 

社会的受容欲求との葛藤

とは言え、人間というのは複雑な気持ちを持ち合わせる生き物であり、人には社会的受容欲求といって「仲良くなりたい」とか「認めてもらいたい」とかいう欲求がある、それもまた現実ですよね。

 

自分のことを評価してもらいたい・認めてもらいと多かれ少なかれ思うものであり、仲良くしたい・好きになってもらいたい、そういう気持ちが揺れ動きます。

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仲良くなりたい…でも…


そのため、もしかしたら「合わない人」に評価してもらいたい・認めてもらいたい・仲良くなりたいという気持ちを抱くこともあるのが人であり、それが「人間関係の難しさ」のひとつの要因ではないかと思われます。

 

このことについては、スキルを身に着けて対処していく方法(巷に出ている人に好かれる〇〇方法とかそういうの)も大事なのかもしれませんが、私はこれをそもそも解決できるものとして捉えずに、大人になっても悩み続ける・難しいと感じるものとして捉えており、「大人でも人間関係は難しくて悩み続けるものなんだよね」と、この葛藤の中でどうやって生きていくかを考え続けることもひとつの道かもしれないことを、子どもたちに提案しました。

 

一応、子どもたちにはそれだけでなく、「尊重」ということを学び続けてもらえたらと思い、パーソナルスペースという「距離」の考え方をお話しました。

 

以下のようなスライドを使用し(アニメーションがすべて終わったときの状態なので意味不明かもです笑)、自分が教室に入って自由に席を選べる時、どこに座るかを一緒に考えたのです。

 

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どこに座る?のスライド

 

お互いが知り合いであれば、隣とか後ろとか、ひとつ飛ばしくらいの席に座ると思いますが、全く知らない人が座っていれば、離れたところに座るだろうと、そのような感じです。

 

何を言いたいかというと、人にはそれぞれに「心地よい距離」というものがあり、その「心地よい距離」というのは時によってコロコロ変わりますし、目に見えないものだから、悩み続けるし難しいと感じるものです。

 

そこに社会的受容欲求があるので、ますます難しい…でもその「心地よい距離」というものをきちんと「尊重する協力」ができるようになっていくことで、難しい人間関係をより「心地よいもの」にしていくことができるかもしれない、そんなことをお話しさせていただきました。

 

自分を傷つけたくなる時もあるかも…そんなときは…

もちろん、これはあくまで理論上の話であり、繰り返しになりますが、人は様々に複雑な気持ちを抱くものですよね。

 

複雑な気持ちの中には、「自分自身を傷つけたくなる」ということもあり得ます。

 

自傷行為については、またいつかきちんと扱いたいと思いますが、もし自分自身のことを傷つけたくなった時には、その気持ちを否定せずに、「そういう気持ちになることもあるよね」と自分の気持ちを認めてあげ、また、その気持ちを誰かに伝えたり、それがハードルが高いと感じれば気持ちを言葉にしてみたり紙に書いたりすることが大切と言われます。

 

孤立や自己否定に陥ること、ひとりで抱えること、逃げ場がないことなどが、子どもたちの自死自傷行為につながると考えられるわけですが、そう考えると、それぞれの気分転換の方法に気づいたり、それをみんなで共有したりして話し合うことなども、もしかしたら大切かもしれません。

 

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自分を傷つけたくなったら


ここの部分は話すと長くかかってしまうので、上記スライドでもわかるように「番外編」とし、上記内容を一案として、子どもたちに提示させてもらいました(別のところでもう少し散りばめて触れています)。

 

まとめ

中学生への研修内容、①については以上となります。

 

「みんな仲良く、いつも元気に」というのは誰もが「よい」と思って「疑わないもの」ですし、私たちは簡単に「同じクラスなんだから仲良くね」とか、ママ友(ママがいまだに多いという現実において便宜上ここではママを使っています)も「家が近いから仲良くしないと」と付き合っている人たちも多いだろうと思います。

 

そのことを否定するつもりはありません。

しかし、そもそも論、「みんなと仲良くすることが得意」な子どももいれば、「人と話をすることが苦手」という子もいることを忘れてはいけないと私は考えます。

 

また、元気で誰かと遊びたいときもあれば、ひとりで静かに過ごしたいときもあるのが人だということを忘れてはいけないでしょう。

 

「みんな仲良く、いつも元気に」というのが「疑われなければ疑われないほど」、それができない子は「その子の努力不足」とされ、懲罰的な対応や「みんな我慢してるのにずるい」という本末転倒なことが起こってしまいかねません。

 

また、これも前に書いたと思いますが、子どもには逃げ場がほとんどありませんし、子どもたちは学校において逃げ方をほとんど教わりません。

 

逃げる場がなく、どうしたら「みんな仲良く、いつも元気に」なれるかを考える世界だけでは、息苦しくなってしまわないでしょうか。

もしも会社で「みんな仲良く」と言われ、いつもランチをみんなで輪になって食べるとしたら、もしも「いつも元気に」と言われ、「元気がないぞ」と肩を叩かれるようなことが日常茶飯事だったら…どうでしょうか。

正直しんどくないでしょうか?

仲良くなることや元気でいることが「得意」な子も、そういう空間が「大好き」と感じる子も、もしかしたらいるかもしれません。

子どもと大人はそもそも違うだろうという意見もあるかと思います。

でも、子ども全員が「得意」でその空間を「大好き」と思うとは思えません。

もっと言えば、そういう子は自分で逃げ場や楽しみをきちんと持つことができている子ではないかと思われます

そういう子たちだけではない、けど、子どもたちはみんな義務で通うのが義務教育であるということにきちんと目を向けることが大切ではないでしょうか。

 

学校批判をしたいわけではありません(それもなくはないですが)。

そうではなくて、私は「みんな仲良く、いつも元気に」をがんばって目指しすぎなくてもいいのかもよと、子どもたちに逃げ場を提供できることが大切と考えています。

「みんなと合わなくてもOK」という前提で「共存」「協力」、そして時に「対話」をする。

そういう「ゆとり」を持てる空間に学校がなればいいなと思います。